【やすひめのはか】
かつてこの地は田島の庄と呼ばれ、伊東祐時の四男である田島七郎左衛門祐明が地頭として在住していた。祐明には安姫という18になる娘があり、近隣でも美しい姫と評判であった。祐明にとっては目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた娘であった。
ある年、都から猿楽の一座が招かれ、しばらく田島の館に逗留していた。その中に一人の眉目秀麗な若い役者がおり、人々の人気となっていた。ところがこの役者と安姫が恋仲であるという噂が流れ始めた。美男美女の取り合わせからの単なる噂であったが、いつの間にか本当らしいということになり、遂には父親の祐明の耳にまで届いてしまった。聞き捨てならぬと祐明は、早速娘に真相を質した。そして姫から真実であると告げられた祐明は逆上した。身分違いも甚だしい。翻意するように祐明は懇々と説得した。しかし姫の心は決して揺らがなかった。むしろ父親が必死になるほど、娘の決意はより固いものとなった。
姫の頑なな態度に、祐明の怒りは頂点に達した。可愛がっていた分だけ怒りはより激しいものとなった。家臣に命じて娘を簀巻きにすると、月宮の池に投げ込み水責めにして決心を変えようとした。しかし娘は惨い拷問にも決して翻意することはなかった。もはや生かしてはおけないと思い詰めた祐明は、そのまま娘を池に沈めたのである。
七日が過ぎて娘を葬ろうとした祐明は、池から引き揚げられた遺体を見て愕然とした。娘の顔にはまだ赤みが残っており、まだ生きているのではないかと思わせた。そればかりか、その表情は穏やかで笑みさえ浮かべていたのである。これを見た祐明は、この遺体を斬り捨てるように命じた。もはや自分の娘ではなく、何かに取り憑かれた魔性にしか見えなかった。続けて、全ての元凶となった猿楽の役者も別の場所で斬り殺すように命じ、諸悪を断つこととしたのである。
しかしその後、田島家では不幸が続き、また姫の処刑に関わった家臣達にも災厄が降りかかった。さらに安姫の亡霊がたびたび現れるようになり、ついに田島家では姫を安宮大明神として祀り、その祟りを鎮めるために安宮寺を建立したのである。
宝塔山公園の北東辺りの遊歩道脇に、この安姫の墓とされるものがある。大きな案内表示がなければ、路傍の無縁墓のような簡素な墓である。安姫を祀った安宮寺も既に廃寺となり、姫を沈め殺したという月宮の池も埋め立てられ、その跡地には祇園神社(八坂神社のことか?)が建てられている。猿楽一座の若者が後に稲荷神社に祀られ残されているのに比べると、もはや安姫の記憶はこの墓だけに留められている。ただ姫が沈められた池のほとりに佐土草(イタドリ)が群生していたことから、この田島の地を“佐土原”と呼ぶようになったのだということである。
<用語解説>
◆伊東祐時
1185-1253。父は、曾我兄弟に討ち果たされた工藤祐経。日向伊東氏の祖である。よってこの安姫の伝承は鎌倉時代中期頃のものであることが推測される。
アクセス:宮崎県宮崎市佐土原上田島