【いなぬしじんじゃ】
長崎街道に面したこの神社は、その名の通り、五穀豊穣の神として古くから信仰されてきた神社である。しかしその創建にまつわる伝説は陰惨極まりない。
祭神とされる木之元氏霊神は、この地に住んでいた木元夕路木(ゆうろぎ)という武士である。だがその正体は、鎌倉3代将軍・源実朝暗殺事件直後、京都で謀反の疑いありとして後鳥羽上皇の命によって攻められた源頼茂であるとされる。この頼茂が京都よりこの地に逃げてきて、名を改めて7人の幼子らと共にひっそりと暮らしていた。
ある時、この地で稲93把が盗まれる事件があった。役人達は、新しくこの地にやって来た木元夕路木が疑わしいとして、厳しく詮議をおこなった。かつては有力御家人であり、盗みなど破廉恥な行為をするはずもない夕路木は何度も弁明を繰り返すが、埒が開かない。盗みの嫌疑を屈辱とし、ついに意を決した夕路木は7人の子全ての腹を切り裂き、腹の中に米粒一つ入っていないことを役人に見せることで無罪を証明したのである。腹の中にミゾエビとグミの実しか入っていないのを見せられ青ざめる役人を前に、さらに夕路木は自らも腹を切り、無実を証して果てたのであった。
その後、このあたり一帯では災厄が立て続けに起こり、全く米が実らない年が続いた。木元氏の祟りであるとみなした村人達は神として祀ることを願い、嘉禎元年(1235年)に倉稲魂命を配して木元氏の霊を稲主大明神として祀る勅命が下され、社が建立された。以降800年近く五穀豊穣やイナゴ除け、商売繁盛のご利益があるとされ篤く崇敬されている。
<用語解説>
◆源頼茂
1179-1219。源頼政の孫。朝廷より大内裏守護の役を任ぜられると共に幕府の御家人として重職に就いている。京都在住の武士から、実朝死後の征夷大将軍の座を狙って謀反を起こそうとしているとの訴えがあり、後鳥羽上皇が召喚したがそれを拒絶したため討たれたとされる。
アクセス:佐賀県武雄市北方町志久