【ほうせんじ ぎびょうづか】
法船寺は元は尾張の犬山にあった寺院であるが、前田家の移封に合わせて移転を繰り返し、加賀移封の際にも金沢に地所を与えられた。本尊は藩祖・前田利家が豊臣秀吉から奥州統一の戦利品として拝領したものであり、また他の寺院が寺町に集められたのに対して現在と同じ場所に置かれ、さらに寛永時代の頃の住職の母が先代藩主・前田利長の乳母だったとされ、前田家にとっては所縁の深い寺であった。ところが、寛永8年(1631年)に起こった大火がこの法船寺前が火元であったために、地所を返上。約70年後の元禄時代になって、ようやくかつてと同じ地所に再建を許されたという経緯を持つ。
そして法船寺には金沢を代表する有名な伝説が残されている。
享保の頃。本堂の天井裏に鼠が棲み着いて暴れるようになった。その大きさは並みの鼠の比ではなく、相当な大きさであった。住職が困り果てていると、近所の者が1匹の子猫を持ってきたので、それを寺で飼うことにした。
しばらくして猫も立派な体格となったので、そろそろ鼠を退治するかと期待したが、一向にその気配はない。やきもきしているとある晩、その猫が夢枕に現れた。そして「あの大鼠は私だけでは退治できません。能登の鹿島郡にいる猫と共に戦えば勝てると思います。少しお暇をいただきます」と言うと、翌日から姿を消した。
2日後、再び猫が寺に姿を見せたが、見慣れぬ猫を連れている。そしてまたその夜に夢枕に現れて「明後日の夜に鼠を退治します」と伝えた。
その当日の夜、2匹の猫は本堂の天井裏に入り込むと、いきなり大きな物音がして猫と鼠の戦いが始まった。猫が鼠を天井から追い落としたら打ち据えて殺そうと人々が本堂で待ち構えていると、ますます物音は大きくなり、ついに天井の板が破れて鼠が落ちてきた。寺男たちは傷つき力尽きた鼠をたやすく打ち殺したのである。そして住職が天井裏に上ると、2匹の猫は古鼠の毒気に当てられたのか、既に死んでしまっていた。憐れに思った住職は2匹の猫の死骸を丁重に葬ってやったという。
現在も寺の境内の一角に、この猫を供養したとされる義猫塚が残されている。またさらに境内にある薬師堂の一部は、加賀騒動で有名な大槻伝蔵の屋敷の一部を移築したものであるという。
<用語解説>
◆寛永の大火
法船寺前の民家より出火したとされ(原因はある侍が町屋の娘に横恋慕して放火したとされる)、江戸時代に起こった金沢の大火で最も古いものである。焼けた家屋は1万戸以上、金沢城も延焼した。この大火によって金沢は現在の町割となり、水利のために辰巳用水が造られることとなった。
アクセス:石川県金沢市中央通町