サイトアイコン 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑

光明坊

【こうみょうぼう】

瀬戸内海に浮かぶ生口島にある寺院である。開基は行基とされ、平安末期に隆盛を誇った。後白河法皇は生口島の荘園を寄進するなどの保護をしており、かつてはかなりの堂宇があったとされている。

都から遠く離れた地にあった大寺院ということで、隠棲の地としてうってつけであったのだろうか。法皇との縁によってこの地を終の棲家としたのが、法皇の息女の如念尼公であった。そしてこの如念尼公の縁にすがり、この地に訪れたのが松虫・鈴虫の姉妹であった。

松虫・鈴虫姉妹は後鳥羽上皇の寵妾であったが、世の無常を知って出家を決意。法然上人の高弟であった安楽上人と住蓮上人によって尼となった。しかし事態を知った上皇は激怒して両上人を処刑、師の法然上人も讃岐に配流としたのである。一方の松虫・鈴虫は追っ手を逃れ、最終的に光明坊に隠れ住むこととなったのである。

さらにこれらの縁あって、如念尼公の招きに応じて、讃岐配流途上の法然上人もこの地にしばらく逗留している。このため、光明坊は真言宗の寺院であるにも拘わらず、法然上人の事績にまつわる伝承が複数残っている。

境内西側には四基の五輪塔が並び、それぞれ法然上人・如念尼公・松虫・鈴虫の墓と称されている。さらにその隣には大きくねじ曲がった白檀の木がある。これは法然上人が使っていた杖が根付いたものであるとされる。

法然上人がこの地を去った後、根付いた杖の木はみるみる生長し、あっという間に巨木となった。ところが大きくなりすぎて、近隣の田に日が差さなくなってしまった。そこで村人は相談して仕方なく伐ることに決めた。ところが翌朝見に行くと、木は境内の方にねじ曲がって、田に日が当たるようになっていたという。

他にも“法然上人流血の尊像”と呼ばれるものがある。法然上人自作の像があったが、京都・黒谷の要請で寄贈した。その後、住職の夢枕に法然上人が現れて、像を造って欲しいと頼まれる。檀家のものが仏師を探しに出ると、同じ夢を見て生口島にやって来た仏師と巡り会い、像を造ってもらった。その際、像の喉元にノミを当てると鮮血が流れ出たという。

<用語解説>
◆後白河法皇と如念尼公
後白河法皇(1127-1192)は第77代天皇。30年以上にわたる院政を敷き、源平の動乱の時代を乗り切った。
法皇には6人の皇女があるが、如念尼公とされる人物はいない。しかし法皇存命中に出家し、また呪詛の嫌疑を受けて都から追放されそうになった、三女の式子内親王(1149-1201)がおり、モデルとなった可能性がある。

◆松虫・鈴虫
後鳥羽上皇(1180-1239)の寵妾であったが、建永元年(1206年)に松虫19歳、鈴虫17歳で出家する。この事件を機に後鳥羽上皇は浄土宗弾圧をおこない、出家を手伝った安楽上人と住蓮上人を死罪に処し、その師の法然上人を讃岐に流罪とした。
光明坊の寺伝によると、松虫は36歳、鈴虫は45歳でこの地で亡くなったとされる。

◆法然
1133-1212。浄土宗の開祖。松虫・鈴虫事件に連座し、75歳の時に流罪となる。4年後に罪を赦されて京都に戻る。

アクセス:広島県尾道市瀬戸口町御寺

モバイルバージョンを終了