【いわとやまこふん】
“八女古墳群”と呼ばれる古墳密集地帯にあり、その中核をなす前方後円墳である。墳丘の長さは約140m、前方部分の幅は90mあまり、後円部分の直径は60mあまりであり、北九州で最も大きい前方後円墳である。
6世紀に造られた古墳であるが、被葬者はほぼ特定されている。筑紫君磐井という地方豪族であり、当時の大和政権に反旗を翻した人物として日本史の教科書にも登場する。
継体天皇21年(527年)、大和政権に不満を持っていた磐井は新羅の誘いを受けて、新羅遠征のために九州に赴いた近江毛野の6万の軍勢に対して進軍妨害を起こして乱が始まった。磐井は北九州一帯を制圧し、乱は拡大した。そして翌年になって大和政権は物部麁鹿火の率いる征討軍を派遣。その結果、磐井は敗れて斬られたということが『日本書紀』を中心に記録されている。
大和政権から姓を授けられているなどの記述はあるものの、その勢力を考慮すると、磐井は北九州一帯を自力で治めていた独立勢力であったと推測される。むしろ大和政権が磐井を味方に取り込めなかった故の戦乱であったと解釈した方が良い。そしてそのような独立勢力が大和政権によって滅ぼされ併呑されていく流れは、吉備や出雲などと同じものであったとも考えられる。ただ吉備や出雲のようにかなり古い時代の出来事は“神話”となり、6世紀という比較的新しい時代に起こった磐井の場合は“史実”として残されたのであろう。
現在、岩戸山古墳は国の史跡に指定されているが、その最も特徴的なものは“石人石馬”という独特の石像である。石に彫られた人物や動物などの等身大像は古墳の周辺に置かれ、他の地域に見られる埴輪のような意味を持つものとされている。特に岩戸山古墳では大量の石人石馬が出土しており、そのレプリカが置かれている。その姿は見慣れている埴輪とは異なるせいか異様であるが、かつてこの地に大和政権とは異なる勢力が存在していたと考えると、あながち違和感はない。ただ多数の石人石馬が破損した状態で発見されているが、この地を接収した大和政権軍によって破却されたものであるとされている。
<用語解説>
◆岩戸山古墳=磐井の墳墓の根拠
『筑後国風土記』逸文には磐井の墳墓に関する詳しい記述があり、それに合致する大きさの古墳であること、そしてその墳墓の北東に隣接する“衙頭”と呼ばれる区画の存在によって、岩戸山古墳を磐井の墓とすることが通説となった。
アクセス:福岡県八女市吉田