サイトアイコン 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑

羊神社

【ひつじじんじゃ】

日本三古碑の一つ、上野三碑の一つである多胡碑には、一人の人物に関する事績が刻まれている。「三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ」として初代郡司となった羊太夫である。ただこの多胡羊太夫なる人物にはこの碑以外に確たる史実が残されていないため、後年さまざまな脚色がなされ、現在ではさらに輪を掛けて怪しげな伝説的存在となっている。

上野国あるいは武蔵国の秩父地方出身とされる羊太夫であるが、その出自をたどると、かつて都で勢力を持った物部氏の子孫であるとか、秦氏に近い渡来人、しかも中央アジアにルーツを持つネストリウス派キリスト教徒やゾロアスター教と深い繋がりがあるのではないかと言われる。

そして300戸の給付という破格の待遇から、武蔵国で銅鉱を発見して朝廷に献上した人物とも目され、藤原の姓を授けられ多胡羊太夫藤原宗勝と名乗ったという。さらにその功績から、都にも出仕する有力な地方豪族という位置付けもなされたようである。

そこから派生したのが、八束小脛という従者の伝説である。この小脛と共に馬を駆けさせると瞬く間に空を飛び、1日で都を往復することが出来たため、羊太夫は毎日天皇に謁見出来たという。ところがある日、昼寝する小脛を見ると、両脇に小さな翼が生えているのを羊太夫が見つけた。ふと悪戯心でその羽を抜き取ってしまったが、それから小脛は空が飛べなくなってしまった。

やがて毎日のように顔を見せていた羊太夫が突然都に現れなくなったことから、朝廷内では羊太夫が謀反を企てているとの噂が流れ(高麗郡にあった渡来人の高麗若光の讒訴によるともされる)、ついに征討軍が派遣されることになった。羊太夫はよく持ち堪えていたが、ついに陣が陥落する寸前に金色の蝶に化して脱出し、池村の地で自害したとされる。

この羊太夫を祀る神社は日本に2ヶ所あり、そのうちの1社が安中市内にある。生き延びた羊太夫の子孫が延宝年間(1673~1681年)に碓氷郡の当地に移住し多胡新田を開発し、祖先を祀ったのが始まりとされる。

<用語解説>
◆多胡碑
高崎市吉井町にある、縦横60cm高さ125cmの四角柱に80文字が刻まれた石碑。和銅4年(711年)に新たに多胡郡を設置する朝廷の命令を記している。同年頃に建てられた碑とされる。

◆日本三古碑/上野三碑
日本三古碑は、飛鳥・奈良時代に建てられた古碑の中で書道史上重要な碑。多胡碑の他には多賀城碑(宮城県)、那須国造碑(栃木県)を指す。
上野三碑はいずれも高崎市内にあり、飛鳥・奈良時代に建てられた最古期の文字碑を指す。平成29年(2017年)にユネスコの「世界の記憶」に登録された。

◆ネストリウス派キリスト教
431年のエフェソス公会議で異端認定となったキリスト教の一派。その後中央アジアを経て中国へ伝わり、景教と呼ばれた。日本へは正式に伝来した記録はないが、6世紀の仏教の伝来の頃に同時に渡来人(特に秦氏)によって伝来したとの俗説がまことしやかに伝わる。

◆ゾロアスター教
前6世紀頃にアケメネス朝ペルシアで興った、善悪二元論の教義を中心とする宗教。中国では拝火教・?教と呼ばれる。日本へは正式に伝来した記録はなく、景教ほどの影響もなかったと考えられる。

◆武蔵の銅鉱
『続日本紀』によると、慶雲5年(708年)に武蔵国秩父郡から自然銅(和銅)が献上されたことを祝って元号を和銅とし、さらにこの銅を使って“和同開珎”が鋳造されたとある。羊太夫の伝説では、この和銅献上をしたのが羊太夫であるとする。しかし、最近の研究では献上したのは金上无という新羅系の渡来人で、羊太夫とは全くの別人であるとされる。

◆高麗若光
生没年未詳。高句麗王・宝蔵王の息子とされる渡来人。霊亀2年(716年)に武蔵国に設置された高麗郡の初代郡司。

アクセス:群馬県安中市中野谷 

モバイルバージョンを終了