【かなえのまつ/くだまつじんじゃ/みょうけんぐうじゅうとうじ】
自治体標語を「星降るまち」とする下松市は、星にまつわる伝承を持つ市である。
推古天皇3年(595年)、鷲頭庄青柳浦に星が降ってきて、松の木に引っ掛かった。しかもその星は七日七晩輝き続け、神の託宣があったとされる。それによると、降ってきた星は“北辰(北極星)の精”であり、3年後にこの地に異国の太子がやって来るため、そのさきがけとして降ってきたという。実際3年後、百済の琳聖太子が来朝したため、人々は星が降ってきた松の木を“鼎の松”と呼んで崇めた。この名は、降臨の松・連理の松・相生の松の3本の松が鼎立していたことから付いたもので、現在は5代目にあたる松がJR下松駅前にある金輪神社(祭神は鼎大明神)の境内となる公園敷地内に植えられている。
来朝した琳聖太子はこの北辰星を祀る妙見社を建てたが、これが現在の降松神社の起こりである(現在の鷲頭山に社殿ができたのは推古天皇17年(609年)とされる)。またこの時に青柳浦から降松(くだまつ)という地名に改められた。この琳聖太子を始祖とするのが周防・長門の守護となる大内氏であり、当然の如くこの妙見社は大いに保護され、「妙見信仰発祥の地」として近隣各地の妙見信仰の拠点となったのである。
明治に入ると、神仏分離令が出され、神仏混淆であった妙見社も神社と寺院に分離させられた。神社は元あった鷲頭山の頂上にある上宮と麓にある若宮となったが、寺院は移転を余儀なくされて海に近い場所へ移った。それが現在の妙見宮鷲頭寺である。ただこの寺院は参道に鳥居が建ち、仁王門を潜ると、本堂の前には狛犬があるという、神仏分離をものともしないたたずまいを残している。
<用語解説>
◆妙見信仰
中国の道教で神格化された北極星(北辰)が、仏教の菩薩信仰と習合して「妙見菩薩」という形で信仰されるようになったものが、飛鳥時代頃から日本に伝来して始まったとされる(下松の妙見信仰は、さまざまな伝承の中でも早くから始まったと考えて良い)。国土を守り、災いを除き、人に福寿をもたらすとされ、日本では“妙見”の名から眼病平癒の効験もあるとされる。また北斗七星を伴った姿で表され、その第七星を“破軍星”と呼ぶことから武神としての性格を帯び、多くの武将からの崇敬を受けるようになった。
◆琳聖太子
百済の第26代王・聖明王の第3皇子との通説があるが、他に30代武王璋の皇子ともされる。また来日時期もまちまちで、大内家の文書では推古天皇19年(611年)に多々良浜に上陸し、聖徳太子に面会、多々良の姓と大内県の領地を授かったとされる。その後、土着した子孫が大内姓を名乗り、周防・長門の太守として室町時代に隆盛を極めた。一説では、大内氏が朝鮮との交易を成功させるために、琳聖太子という架空の人物を祖先としたとも言われるが、真偽不明。
アクセス:山口県下松市北斗町(鼎の松)
山口県下松市河内(降松神社)
山口県下松市中市(妙見宮)