【かさいしじんじゃ】
この神社の本殿に“御神体”として安置されているものは、一個の石碑である。むしろこの石碑を安全に保存するために創建されたと言った方が正しい神社である。
安置されている石碑は「那須国造碑」と呼ばれ、日本三古碑の1つとして数えられる国宝である。全152文字が刻まれており、永昌元年(689年:元号は唐のもの)に朝廷より那須国造直韋提に郡の長官である評督(こおりのかみ)という官職が与えられたこと、その後、庚子の年(700年)に韋提が亡くなったため後継者らが故人を偲び碑を建てたことが記されている。歴史的にも、那須国が後の下野国に併合された事実が分かる内容となっており、非常に貴重な史料ともなっている。
しかしこの碑が初めから大切に扱われてきたものではなく、この神社の元となった堂宇が造られたのも元禄4年(1691年)のことである。それまでは長らく草むらに倒された状態で転がっていたらしい(この碑の文字が風化していないのは、文字が刻まれた面が長く地面に埋まっていた状態だったためとされる)。それを円順という僧が延宝4年(1677年)に発見、それを里正(庄屋)の大金重貞に伝えた。大金はそれを独自に調査して詳細をまとめ、天和3年(1683年)に当地を訪れた藩主の徳川光圀に書を献上。ここから話は大きく動き出す。
貞享4年(1887年)に再訪した光圀は家臣の佐々宗淳(「水戸黄門漫遊記」に登場する“助さん”のモデルとなった人物)に命じて内容を解析、この碑の価値を認識して元禄4年の創建となったのである。さらには翌5年には、この碑にある那須直韋提の埋葬地を特定すべく、日本初の本格的学術調査で侍塚古墳の2基の前方後円墳を発掘している(最終的には被葬者の特定には至らず)。
ちなみに那須国造碑は神社の御神体であるが、社務所に申し出れば拝観可能となっている。なおこの笠石神社の名は、この碑の上に置かれた笠石から採られたものであるが、これは堂宇に安置する際に徳川光圀が、碑と共にあった石を上に置いたものであると言われる。
<用語解説>
◆日本三古碑
700年に建てられた「那須国造碑」、711年に建てられた「多胡碑」(群馬県)、762年に建てられた「多賀城碑」(宮城県)の3つを指す。
◆徳川光圀
1628-1701。水戸藩2代藩主。隠居後に身分を隠して全国を巡って世直しをする「水戸黄門漫遊記」という一連の講談など、数々の逸話を持つ型破りな人物であったとされる(実際には全国各地を巡見することはなかったが、領内は結構巡見しており、各地にその武勇伝的な伝承が残っている)。一方で『大日本史』の編纂などの学術的な分野での功績も多い。この那須国造碑の逸話も、光圀ならではの話となっている。
アクセス:栃木県大田原市湯津上