【いしのきづか】
古来より“奇石”として知られており、現町名の由来となっている。塚とされているが、実際には土盛りなどは見られず、5本の石柱が立っているだけのものである。ただその5本は規則正しく立っており、中央に一際大きな石柱があって、それを囲むように4本の石柱が立つが、それらはほぼ正方形の4つの頂点をなしている。しかもその4つの頂点は、正方形の中心部分にあたる中央の石柱に対して正確に東西南北の位置に立てられている。明らかに何らかの目的を持ってここに置かれた石であることは間違いない。
この5つの石の由来については、次のような伝説が残されている。
このあたりで造り酒屋を営んでいた“浦島太郎”という男がいた。ある時から夕刻になると徳利持参で酒を求める若い娘があった。気になった太郎はその後を追うと、待ち構えていたように浜辺に娘が立っており、太郎に声を掛けた。娘は龍宮の乙姫と名乗り、酒を買い求めたのは太郎の気を引くためであり、これから自分の住むところへ来て欲しいと言う。そして太郎に目を閉じさせると、一瞬で大きな屋敷に移動して、そこで太郎と乙姫は夫婦の契りを結んだのである。
それから2人の間には5人の娘が出来た。しかし年月が経ち、太郎は望郷の念を強く感じるようになった。そこで乙姫に暇を請うと、単身で故郷に戻ったのである。しかし故郷には知る者はなく、あまりにも長い年月が経ちすぎていることを太郎は悟り、さらに自分が植えた柳の苗木が巨木となっている様子を見た途端、身体に異変が起こりその場で朽ち果ててしまったのである。村人はそれを憐れに思い、柳の木の下に亡骸を埋葬した。
しばらくして、見慣れぬ5人の女性が村に現れた。5人は浦島太郎の顛末を聞くと、その墓を前にして茫然自失となった。5人は太郎の娘であり、父の後を追ってこの世界にやって来たのである。悲しみのあまり娘達はその場に立ち尽くしたまま、一夜にしてそれぞれが石と化してしまった。それが石の木塚の5本の石柱であるという。あるいは別伝では、娘達は父の死を知って、どこからか石柱を運び入れて一夜で塚を設けたともされる。
不思議な伝説はさらにあり、中央に立つ石柱は地中深くまで埋まっており、その根は約70km以上離れた石動山(あるいは龍宮とも)にまで達しているとされた。その噂を聞きつけたのが、ちょうど陸奥への逃避行を続けていた弁慶である。弁慶は石柱を引き抜こうとしたが果たせず、結局、怪力故に中央の石には足跡、南の石には指跡を残したという。
この石の根を探り当てようという試みは、さらに年代を経て、加賀藩3代藩主の前田利常がおこなったが、これも徒労に終わっている。
ところが平成5年(1993年)に試掘調査がおこなわれ、中央の石柱付近から11世紀頃の土器が見つかり、その時代に立てられたものであることが判明した。当時この地には主要な街道が通っていたことから、この5つの石柱は交通に関係する標石として造られたものとの見解に現在は落ち着いている。なお中央の石柱は全長267cmであることも明らかになっている。
<用語解説>
◆前田利常
1594-1658。前田利家の四男で後に加賀藩主となる(藩祖利家から数えて3代目となるが、実質2代目)。幕府に対しては服従するも、その言動においては“かぶき者”として知られる。
アクセス:石川県白山市石立町