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月照寺

【げっしょうじ】

元は洞雲寺という禅寺があったが、寛文4年(1664年)に松平家初代藩主の松平直政によって再興された。その時に浄土宗に改められ、直政の生母・月照院の位牌安置所となったことから、月照寺という名となった。さらに直政自身も葬送の地とするよう遺命したため、それ以降は松江藩松平家の墓所となった。現在でも、藩政時代に亡くなった全9代の藩主の墓所があり、国の史跡に指定されている。

6代藩主の松平宗衍の廟所には、天隆公寿蔵碑という巨大な石碑が置かれている。その台座には大人の背丈ほどの高さもある、巨大な亀の石像がある。この大亀にまつわる奇怪な伝説が残されている。

寿蔵碑は、個人の業績を刻み、生前に顕彰する目的で造られる。この碑も安永7年(1778年)に宗衍50歳の時に、当時藩主であった長子の治郷によって造られたものである。材質の良い石ということで、久多見(松江より西に約30km離れた地)より取り寄せ、月照寺への運搬のために船を使い、境内にまで新たに水路を築かせているほどの大掛かりなものであった。

ところがある時から、この大亀の石像が夜な夜な動き出して、境内の池の水を飲み、果ては「母岩恋し、久多見恋し」と城下に繰り出して、人を食い殺すということまでし始めた。困り果てた住職は、ある夜、大亀に向かって説法をするが、亀は「私にもこの奇行を止めることが出来ません。住職にお任せします」と返答した。そこで住職は亀の背中に巨大な石碑を置き、二度と動き出さないように封じたという。

上の伝説は、小泉八雲の『知られざる日本の面影』で紹介されているものだが、別の話も残されている。それによると、月照寺の池にいた亀が妖力を身につけ、夜な夜な町を徘徊して人を襲って喰らうことをした。そこで住職は、藩主の廟所に大亀の石像を安置し、その法力で亀を封じたという。

ちなみに石碑の下に置かれる、亀の形をした台座は亀趺(きふ)と呼ばれ、中国では高位高官の墓碑などに用いられ、日本でも江戸時代以降に使われるようになったとのこと。亀趺と呼ばれているが、その正体は亀とは全く違う、想像上の霊獣・贔屓である。

<用語解説>
◆松平宗衍
1729-1782。松江藩松平家第6代藩主。逼迫した藩財政を立て直すため親政をおこなう。一時的に経済は回復するが、相次ぐ災害と比叡山山門修築により破綻。明和4年(1767年)に隠居。一説では経済破綻の失政の責を負ったためと言われる。隠居後は奇行に走るようになり、若い侍女の背中に花模様の入れ墨を施し、薄物の着物からそれが透けて見えるのを楽しむなどのおこないがあったという。

◆松平治郷
1751-1818。松江藩松平家第7代藩主。松江藩の財政危機を乗り切り蓄えを増やすも、その後の道楽により再び財政を悪化させる。江戸期を代表する茶人で、不昧の名で知られ、文化都市・松江の基盤を作り上げたことでも有名。

◆贔屓
中国の伝説上の霊獣。龍が生んだ9匹の霊獣の1つとされる(竜生九子)。姿は亀に似ており、重きを負うことを好むとされ、そのため土台や台座の装飾に用いられることが多い。

アクセス:島根県松江市外中原町

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