サイトアイコン 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑

打合橋

【うちあいばし】

豊臣秀長が大和郡山を統治していた頃、家老に亀井氏という者があり、その息子に式部と名乗る若侍がいた。ふとしたことから式部は、百姓の娘であった深雪と懇ろとなり、二人は打合橋のたもとで逢瀬を重ねるようになった。ところが藩では侍と他の身分の者との恋は御法度。いつしか噂になった二人の仲も当然罪に問われた。そして式部は死罪と決まったのである。

処刑の場は式部の願いから、打合橋となった。家老の息子とはいえ公序良俗に反する大罪ゆえに斬首を科せられた式部は、従容として橋の上で首を刎ねられた。その首は高く飛び上がると、そのまま橋の下に落ちていった。人々はその首の行方を追って橋の下に向かうと、そこには深雪の亡骸があった。おそらく覚悟の上で式部の後を追ったのであろう。深雪は式部の首を抱きかかえたまま事切れていたのであった。

それから二人の命日に当たる6月7日になると、橋の東西から一対の怪火が橋を渡り、橋の真ん中でジャンジャンと音を立てながらあやしく絡み合う姿が目撃された。人々はそれを式部と深雪の霊であろうと考え、その日は橋のたもとで「ジャンジャン火迎え」と称する慰霊の踊りをするようになったという。

奈良市と大和郡山市の境にある打合橋は、現在でも県道41号線としてかなりの交通量のある場所となっている。既に怪火が現れることもなく、また慰霊の踊りも行われることも絶えて久しい。ただその橋の名前だけが、この悲しい伝承の痕跡となっているのみである。

<用語解説>
◆豊臣秀長
1540-1591。豊臣秀吉の異父弟。秀吉の天下取りに貢献し、その片腕として活躍。天正13年(1585年)に四国征討の功により大和国を加増され大和郡山に城を構えており、上の伝承はこの頃から数年の間の出来事であったと推測される。
ちなみに史実として、豊臣秀長の大和時代の家老職には「亀井氏」と名乗る者はいない。

◆ジャンジャン火
奈良の伝統的な妖怪。北部一帯で伝承されているが、この世に未練を残して死んだ者の霊がなす怪異であると考えられているが、その由来はさまざまであり、上のような男女の悲恋・愛着から始まったもの、戦国時代の豪族十市氏の滅亡に関わるものなどが有名である。
なお打合橋の伝説については、昭和3年(1928年)発行の『民俗芸能』の7号で紹介されたものが初出とされており、怪火よりもむしろその慰霊の踊り(盆踊り)紹介がメインであった。

アクセス:奈良県奈良市西九条町

モバイルバージョンを終了