【ねねまのはか/だいごがいけ】
栗原市の若柳地区に、三峰神社という小社がある。その境内に申し訳程度に残されている、干上がった池の跡のような場所がある。それが醍醐ヶ池であり、かつてはもっと大きな池であったとされるが、宅地開発などでその面影は全くない。そして小社から少し離れたところ、田に囲まれるように五輪塔、地蔵と松の木がある。それが禰々麻の墓であるとされる。いずれも辛うじて現在に残された、憐れを誘う伝承を持つ遺跡である。
後醍醐天皇による建武の新政において、東北地方を統治するために派遣されたのが北畠顕家である。義良親王(後の後村上天皇)を奉じて多賀城に赴任すると、瞬く間に各地の諸将を束ねる。さらに反旗を翻した足利尊氏を討つべく、東北から京都まで一月足らずで転戦してこれを打ち破るなど、休むことなく獅子奮迅の働きを見せた。
一方で、顕家の家族は京都に残されたままであった。そこで妻は顕家会いたさに、本拠となった東北へ旅立つことにした。連れて行くのは幼い二人の姉弟、禰々麻と醍醐であった。従者を連れての旅であったが、女子供の足ではやはり過酷なものとなった。途中、妻は病気に冒されてついに亡くなり、幼い姉弟が従者に連れられて、父のいる東北に向かった。だが、いつしか従者もこの二人を見限るようにいなくなり、東北の地にたどり着いた時には姉弟だけが取り残されてしまっていた。それでも父に会いたい一心で二人は旅を続けた。
しかしある時、ついに禰々麻は弟の醍醐の姿を見失ってしまった。途方に暮れる中、さらに追い打ちを掛けるように、父が既に討死したことを知ってしまう。家族のすべてを失ってしまったと悲嘆した禰々麻は、最早生きる希望を失い、近くの池に身を投げて生涯を閉じてしまうのであった。
同じく姉とはぐれて独りでさまよう醍醐は、数日掛けてようやくとある池のほとりにたどり着いた。喉の渇きを癒やそうと池に寄った醍醐は、そこで思いがけないものを見つける。水面に漂うように見える人の姿は紛れもなく、必死になって探していた姉の禰々麻であった。ようやく見つけた姉に喜ぶ醍醐は、何の躊躇いもなく水面に飛び込んだ。……
幼い姉弟が相次いで命を落とした池は、その後“醍醐ヶ池”と呼ばれるようになり、そのそばには姉・禰々麻の墓と称する塚が築かれたという。
<用語解説>
◆北畠顕家
1318-1338。12才で参議となるなど非凡な才能を見せる一方、武将としても足利尊氏に伍する能力を持っていたとされる。建武の新政では東北の統治を任され、南朝の一大拠点となった。また足利尊氏を倒すため、大軍を率いて東北と畿内を幾度も往復するなど、南朝側の主力となった。しかし度重なる連戦のために軍勢が疲弊し、石津の戦いで全軍総崩れとなったところを攻められて討死。生前の官位は正二位権大納言兼鎮守府大将軍。
◆北畠顕家の家族
顕家の妻は、日野資朝の娘であるが、顕家討死の直後に河内の観心寺で髪を下ろして夫の菩提を弔ったとされる。東北へ赴く途中で病死したという史実はないと考えられる。
子供は男子3名と女子1名が記録にある。ただし嫡男の顕成ですら建武2年(1335年)頃の生まれてとなっており、禰々麻や醍醐といった年齢の子供があったとは考えにくい。しかしながら、顕家の子が東北地方に土着し、その子孫が戦国時代末まで存続していたことは事実として確認できる。
アクセス:宮城県栗原市若柳