【いがみじんじゃ】
創建は永正17年(1520年)。主祭神は三浦荒次郎義意とされる。
相模の名族三浦氏は永正13年(1516年)に、伊勢宗瑞(北条早雲)によって新井城にて滅亡した。義意もこの戦いで自害するのだが、そこから神社創建にまつわる奇怪な伝承が残されている。
『北条五代記』に書かれている義意は21才にしてまさに容貌魁偉、背丈は7尺5寸(227cm)、黒髭をたくわえて目は血走り、手足も筋骨隆々で八十五人力であったとされる。さらに戦に及んでは、厚さ2分(6mm)にうち延ばした鉄の甲冑を身にまとい、家に代々伝わる5尺8寸(176cm)の正宗の大太刀を持って斬り回った。そして最後の戦いでは城の外に打って出て、白樫の丸木を1丈2尺(364cm)に切って八角に削った金砕棒を振り回し、敵の兜目がけて振り下ろせば頭が胴にめり込み、横に薙ぎ払えば5人10人と一気に打ちひしいだ。遂には500人ばかりを打ち殺すと、自ら首を掻き切って自害したのである。
だがこの打ち落とした首は死なないどころか、北条氏の居城であった小田原に向かって飛び去り、そして井神の森にあった松にかぶりついたのである。首はそのままの状態で通行人を睨みつけ、気絶する者や中には死ぬ者まで出てきた。数多くの高僧などが供養するも首の怪異は止まず、3年が経って、総世寺の4世・忠室存孝が松の下で読経をしつつ
「うつつとも 夢とも知らぬ ひとねむり 浮世の隙を 曙の空」
と詠むと、首はようやく目を閉じるやたちまち白骨となって松の木から転がり落ちたのである。そしてその時「われ今より当所の守り神にならん」との声がしたため、ここに神社を建立したという。
武運つたなく敗れた者を勝者が慰霊のために祀り、神とすることで逆に自分たちを守護する存在とする考えは古来よりあり、居神神社もそのような発想から、自分たちが滅ぼした相模の名族の当主を神とすることは十分に考えられる(しかも居神神社は小田原城から見て南西の位置、つまり裏鬼門に当たる場所にある)。そして義意の“鬼神”のような武勇についても、“人間離れした存在=神となるべき存在”であるという認識が下敷きにあるものと推察出来る。
<用語解説>
◆三浦義意
1496-1516。三浦氏最後の当主。父は三浦道寸義同。北条氏の小田原城奪取(1495年)から始まる相模進出以降、三浦氏と北条氏は抗争に入る。最終的に三浦氏の滅亡を以て、北条氏の相模侵攻は完了する。
なお辞世の句は「君が代は 千代にや千代も よしやただ うつつのうちの 夢のたはむれ」。おそらく引導を渡された一首は、この辞世の返歌という位置付けになっているものと思われる。
◆『北条五代記』
寛永期(1624~1645年)に成立と考えられる。三浦氏の一族であり、北条氏の家臣であった三浦浄心(1565-1644)が著す。後北条氏5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書。
◆総世寺
小田原市にある曹洞宗の寺院。開山は嘉吉元年(1441年)、小田原城を建てた大森氏の一族である安叟宗楞。家督争いで一時的に敗北した三浦道寸が、この寺に逃げ込んでいる。
◆義意の首の異説
居神神社の創建伝説として“義意の首が小田原へ飛んだ”話が残っているが、『北条五代記』では首が生き続けるなどの逸話はあるが、“首が飛んだ”という表記はない。ただ「義意が死んだ場所100間(182m)四方は、今なお田畑を作らず、草を刈らない。牛馬もここの草を食べると死ぬのを知っていて、他の獣も入らない」という記述があり、首は新井城の戦場跡にあったものと考えられる。また“小田原に首が飛んでいった”という表現は、この地に一時期梟首されたことの暗示であるとの説もある。
なお居神神社では、三浦市住民からの抗議もあって、現在は“首が飛んできた”という伝承の紹介はおこなっていない。
アクセス:神奈川県小田原市城山