【じょうねんじ じょうろくじぞう】
正念寺の境内にある地蔵堂に安置されている巨大な地蔵で、一丈六尺(約4.8m)という大きさから“丈六地蔵”の名で呼ばれている。天明4年(1784年)に当時の住職が托鉢などで浄財を集め、荒砥の万五郎という石工が彫り、後に同所の豪商・大貫吉左衛門が正念寺に移設したという記録がある。しかしそれよりも有名な地蔵の由緒にまつわる伝説が残されている。
昔あるところに一人の男があった。妻子もいたが、先年の洪水で川に流されて亡くなり、荒んだ生活をしていた。ところが男は突然妻子の仇を討とうと一念発起し、一人で堤防を造り出した。奇異の目で見ていた村人も手伝うようになったが、数年経っても完成しないためやがて見限っていった。それでも精を出していた男は、ある大雨の夜にこさえている堤防が切れることを心配して出て行ったまま戻らなかった。
翌朝堤防の場所へ村人が行くと、とんでもなく大きな岩が堤防が切れるのを防ぐようにしてあった。これを見た村人は、この巨岩はおそらくあの男が堤防を守ろうとの一念で化身したものだと思った。そして男を供養しようとなって、この岩で巨大な地蔵を彫ったのである。
ところがこの地蔵が大きすぎて、寺へ運ぶことが出来ない。村人が困り果てていると、突然地蔵が「わしは自分の足で歩いて寺まで行くので心配するな。しかし歩いているところは見られたくない」と口を利いた。村人は実に有難い地蔵さまだと、言う通りに皆家に籠もって念仏を唱えて見送ったという。
地蔵はゆっくりと寺へ向かって歩いていると、その途中の橋で今にも飛び込もうとしている母子の姿を見つけた。地蔵が訳を尋ねると、「子の足が悪く、立つことすらままならないので、二人して身投げしようとしている」と母が答える。それを聞くと、地蔵は「ならば、わしの足と取り替えてやろう」と言い、自分の足を折って子供に授けたところ、あっという間に子は歩けるようになった。しかし地蔵はこれ以上歩くことが出来なくなり、その場にどっかと座って動かなくなってしまった。その後この大きな地蔵は寺に納められたが、今も座ったままの姿で安置されている。
<用語解説>
◆正念寺
浄土宗の寺院。建武3年(1336年)創建された。
◆大貫吉左衛門
1740-1808。大貫家4代目吉左衛門で、本名は国寛。大貫家は糸綿商として財を成し、山形特産の紅花なども扱い、大阪・京都の問屋と取引をおこなっていた。また国寛は遅日庵杜哉(ちじつあんとさい)の俳号を持つ俳人で、『芭蕉翁発句集蒙引』という注釈書を著している。
アクセス:山形県西置賜郡白鷹町荒砥甲