【かげきよびょう】
悪七兵衛景清は、平家の家人の中でも抜群の知名度を持つ勇将である。本姓は藤原であるが、平家に忠義を尽くしたので、平景清が通称となっている。その剛勇は名高く、屋島の戦いで敵方の錣(首筋を守るため兜の後ろに付けられた部分)を素手で引きちぎるという怪力ぶりが『平家物語』巻十一にに記されている。
壇ノ浦で平家は滅亡するが、景清は戦場を脱出して潜伏、敵の総大将・源頼朝の命を単独で狙う身となる。だが襲撃は失敗し、捕らえられた景清は頼朝の面前に引き出された。ここで死を覚悟するが、頼朝は平家に対する忠義を称えて罪を赦し、出家の上で日向国に土地を与えて流罪としたのである。
その後の景清は終生その地に留まり亡くなったとされるが、数々の伝説的逸話が残されている。最も有名なものは、隠棲後も源氏の世はますます栄え、隆盛は日向の片隅でも目にするため、それを見たくないと自身の両目を抉り取り投げ棄てて復讐心を鎮めた逸話である(目を潰したのは日向に送られる前、頼朝の面前での出来事ともされる)。
こうして盲目の僧と成り果てた景清の許へ訪れたのは、一人娘の人丸である。尾張熱田の遊女と懇ろになって生まれた子だが、女児では戦の役に立たないと早々に知り合いに預けていた経緯があった。しかし景清が源氏方に捕らえられ日向に流されたことを知り、はるばる対面にやって来たのである。
謡曲「景清」によると、景清が住まう地に辿り着いた人丸は、一人のみすぼらしい僧に声をかけて景清の所在を尋ねるが、目が見えぬ故に知らぬと言われる。さらに他の者にも問うと、その者は先ほどの場所へ行って僧に呼びかけた。最初に出会った僧こそが父・景清であったのだ。対面を果たした後、娘の求めに応じて父は屋島の合戦での“錣引き”のくだりを語って聞かせ、かつての勇名を轟かせた武将の矜恃を示す。そして景清はもう長くは生きられないだろうと言い、自分の菩提を弔うよう頼んで親子はまた別れていったのである。
しかし地元の伝説によると、人丸はその後この地に留まって父親の身の回りを甲斐甲斐しく世話をし続けていたが、30歳にもならぬうちに病で亡くなってしまう。娘に先立たれた景清は大いに嘆き悲しみ、単身霧島神宮へ参拝の旅に出るが、その帰途に病を得て亡くなった。62年の生涯であったとされる。
平景清が配所となった日向で居を構えた跡にあるのが、景清廟である。綺麗に掃き清められた敷地内には景清を祀る廟所を中心にその両親の墓、そして人丸の墓が立っている。そして景清愛用の琵琶が堂内に、さらに硯に使っていた石が残されており、硯の破片を煎じて飲むと眼病に効くとされ長らく人が削っていたと言われる。
<用語解説>
◆景清と眼病
自ら両目を抉り出し盲目となった平景清は、その逸話から眼病の神として祀られた。特に宮崎では、抉り出した両目を景清が投げ棄てて松の木に引っ掛かった地に神社が建立され、生目神社として全国的に知られている。また全国各地にある景清伝説の地にもセットのように生目神社があり、眼病の神として地元で信仰されている。
アクセス:宮崎県宮崎市下北方町