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三浦道寸の墓

【みうらどうすんのはか】

三浦一族は相模国三浦郡を所領として代々“三浦介”を名乗る、板東武者の名門である。源氏に仕えて鎌倉幕府成立に大きく貢献するが、執権・北条氏と対立して一旦宗家は滅ぼされる。しかし傍系の佐原氏が三浦姓を名乗り、南北朝時代は相模国守護、その後、扇谷上杉氏が相模国守護となるとその重臣(守護代)として勢力を伸ばす。そして新井城を拠点に、三浦郡・鎌倉郡を支配する勢力に成長する。

しかし三浦道寸(義同:よしあつ)が当主となった頃、相模国は新興勢力によって危機に晒されていた。実力で伊豆国を手に入れた伊勢宗瑞(後の北条早雲)が相模国に進出してきたのである。明応4年(1495年)、宗瑞は手始めに大森氏の小田原城を手に入れる。大森氏が母方の叔父であるため道寸は戦うが、扇谷上杉氏と共に一時期和睦。だが領土的野心を持つ宗瑞との関係は徐々に悪化し、遂に道寸と宗瑞は永正7年(1510年)お互いの居城を攻めることになった。

さらに宗瑞は三浦領へ侵攻。永正9年(1512年)、道寸は新井城まで退却、扇谷上杉氏に援軍を要請する。ところが、この援軍を宗瑞側が迎撃して敗走させてしまう。このため道寸は新井城に籠城せざるを得なくなってしまったのである。

三方を海に囲まれ、強力な水軍を持つ新井城は難攻不落であり、籠城戦は3年にも及んだ。しかしその間に宗瑞は相模国内の他の豪族を支配下に置くことに成功し、三浦氏はますます孤立無援となっていった。

永正13年(1516年)、扇谷上杉氏の援軍が再び撃退された後、道寸は城を打って出て総攻撃をおこなうことを決心する。その夜城内で酒宴が催されたが、城から逃げ出す者は皆無であったという。翌朝、三浦勢は城から出て大いに戦ったが、圧倒的な敵の前に全員が討死。城を臨む入り江は三浦の兵の血で赤く染まり、油を流したようになったために“油壺”と呼ばれるようになった。そして道寸は辛くも城へ戻りその場で自害して果て、これによって名門三浦氏は再び滅亡したのである。享年66。

三浦氏の居城であった新井城は、現在の油壺マリンパークや東京大学地震研究所・岬臨海実験所辺りにあったとされている。そして三浦道寸の墓もそのそばにあり、参拝する人も多いという。また三浦一族の霊を慰めるために、毎年“道寸祭り”がおこなわれている。

<用語解説>
◆三浦道寸
1451?-1516。父は扇谷上杉氏より養子となった三浦高救(扇谷定正の異母弟にあたる)。定正による太田道灌暗殺を機に、高救が扇谷上杉氏当主の座を狙って、道寸に家督を譲る。しかし養父である三浦時高の怒りを買って追放され、道寸は小田原城主の大森氏を頼る。その後明応3年(1494年)、道寸は大森氏の援助で時高の新井城を攻めて自害に追い込み、当主に返り咲く(時高病死の後に新井城を奪取したとの説も)。だが当主となった翌年より伊勢宗瑞の相模侵略が始まり、最後は新井城落城により敗死。嫡男の三浦義意も討死となり、三浦氏は滅亡する。

◆伊勢宗瑞
1432(1456)-1519。出自は不明な点が多いが、姉妹が駿河の今川氏親の実母であり、その縁で駿河で活動し、文明19年(1487年)に氏親を当主に就ける功績で重臣となる。明応2年(1493年)、伊豆の堀越公方の内紛に乗じて伊豆国を奪取。その後も今川家と協力する形で領土を拡張させる。相模侵攻は、小田原城を知略で乗っ取ってから20年かけて三浦氏を滅ぼして平定させている。なお“北条”の名は、実際には嫡男の氏綱が使用し始めたものであり、北条早雲という名を生前に使用したことはない。

アクセス:神奈川県三浦市三崎町小網代

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