【りゅうぐうじ にんぎょづか】
地下鉄祇園駅すぐにあり、博多の町の中心地と言っていいような立地である。寺の本堂も近代的な建物になっているが、その創建は平安末期頃まで遡ることが出来る。しかしその当時は、海辺にあったために潮が満ちると境内が浸水することから浮御堂と呼ばれていたという。現在の龍宮寺という名となったのは、ある怪事件が発端である。
貞応元年(1222年)、博多津に人魚が打ち上げられた。その大きさは八十一間(約145.8m)という、とんでもない大きさのものであったと記録される。怪しいものであるから早速鎌倉の幕府へ知らせが入り、さらに朝廷からも勅使が検分に来ることになった。そして博多に到着したのが冷泉中納言であり、浮御堂にしばらく滞在することとなった。
地元の者は不老長寿の妙薬であるとして人魚を食べようとしていたのであるが、占術の博士・阿部大富(あべおおとみ)が占ったところ、この人魚は国家長久の瑞兆であり、手厚く葬ることに決まった。そこで人々は勅使の冷泉中納言が滞在した浮御堂を適地として、そこに人魚を埋めたのである。そして人魚が龍宮から来たものであると見なして寺の名前を龍宮寺とし、山号を中納言にちなんで冷泉山としたのである(寺の所在地である冷泉町は、この冷泉山から取られている)。
龍宮寺の境内には、人魚を埋めたことを示すかのように人魚塚が建立されている。そして本堂内には人魚の絵の掛け軸と共に、人魚の骨が安置されている(常時の一般公開はされていない)。明治頃までは、月1回の縁日になると骨を浸した水を参拝者に振る舞っていたという。しかしその後、数多くあった骨は散逸し、現在では数本のみが残されているだけである。
<用語解説>
◆冷泉中納言
冷泉家は、藤原定家の孫である為相を始祖として、以降名乗っている苗字である。しかし為相は弘長3年(1263年)の生まれであるため、時代的に合わない(後年、中納言にまで昇進している)。また父の藤原為家は、貞応元年当時は存命であるが、まだ中納言の地位にはない。さらに祖父の藤原定家も存命であったが、中納言となるのは10年後のこととなる。時代的なものを考え合わせると、冷泉中納言とは、藤原定家を暗に指すものと推測する。
冷泉山の名称であるが、龍宮寺のある周辺は、博多津の中でも「冷泉津」と呼ばれる場所であり、それが由来であるとの説がある。龍宮寺は室町時代に連歌の創始者である宗祇が逗留しており、歌道の繋がりから冷泉家の人物が伝承の中で想定されたとも考えられる。
アクセス:福岡県福岡市博多区冷泉町