【しょうりゅうじ さんたいぶつどう】
松龍寺は奈良時代の養老年間(717~724年)に泰澄大師が帝釈天を祀ったことから建立された古刹である。現在この寺の山門の脇には簡素な堂があり、左から大日如来・阿弥陀如来・地蔵菩薩の3体の仏像が安置されている。地元では“三体仏堂”と呼ばれており、江戸時代の中頃に近在の人が慰霊のために建てたと言われる。この地はかつて激戦があり、『朝倉始末記』に「越前加賀之一揆蜂起附帝釈堂怨霊之事」という逸話が残されている。
長享2年(1488年)以降「百姓の持ちたる国」となった加賀の一向宗門徒であるが、政治的にも対立する越前朝倉氏とたびたび合戦を繰り広げており、その最大のものが永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いである。この戦いで大敗して国外退去を余儀なくされた越前一向宗門徒は、その翌年の7月に加賀の門徒勢と共に越前領内に侵攻し、拠点回復のため朝倉軍と戦った。これが松龍寺付近でおこなわれた“帝釈堂の戦い”である。この戦いでも一揆勢は敗れ、玄任率いる300名余りの軍勢が全滅するなど多数の死者が出たのである。そして戦から30日あまりして、帝釈堂近くの村々に怪しいものが出るようになったという。
ある夜、家の門をほとほとと叩く者があるので家人が戸を開けると、そこには頭のない青白い骸が4、5体立っていた。悲鳴を上げて戸を閉め、後から怖々覗くともう誰もいなかった。
ある時には、突然窓から青色の生首が覗き込むやにっこりと笑いかけてきた。それを見た家の女房が棒立ちになっていると、そのまま掻き消すように見えなくなってしまった。
ある夕刻、3人の禅僧が付近を通りがかると、雲の上に数多くの修羅道に落ちた兵の姿が現れ、鬨の声を上げて合戦を始めた。さらに傘ほどの大きさの光るものが100以上も飛んできて、その後から鬼のような姿をした者が、馬にまたがり火を吐きながら走り寄ってくるのが見えた。僧達は慌てて寺に逃げ帰った。
そして冷たい雷雨の日などは、日中にもかかわらず、合戦がおこなわれているような物音が聞こえてくることまで起こった。
そこで増信上人という僧が豊原寺の僧と共に帝釈堂で追善法要を執りおこなったところ、それからは奇怪なことが起こらなくなったという。
この“帝釈堂の戦い”で松龍寺も当然焼失したが、当時の住職であった霊仁和尚はこの地を去らず、草庵を建ててこの地で亡くなった者の霊を供養し続けたという。その後、承応元年(1652年)に松龍寺は藩命によって浄土宗に転宗し、現在に至っている。境内には、住職の達誉智山が“熊坂長範物見松”で大仏を製作した残りの木屑を使って彫り上げた1000体の阿弥陀仏が安置してある千体仏堂がある。
<用語解説>
◆『朝倉始末記』
朝倉氏と加賀一向一揆との戦いを記した「加越闘諍記」と織田信長による越前侵攻を記した「越州軍記」を合わせて編纂したとされる軍記物。成立時期が朝倉氏滅亡から数年後の天正5年(1577年)頃、編者も朝倉氏旧臣と推測されるため、誇張はあるものの荒唐無稽な内容とは言い難いとされる。
◆九頭竜川の戦い
幕府内の権力争いに加勢した本願寺9世宗主・実如が、反対勢力の国々に対して一向一揆勢を出兵させた戦いの1つ。九頭竜川を挟んで、朝倉教景(宗滴)を主将とする朝倉勢12000と加賀を中心とする一向宗門徒など約30万が戦う。精鋭による渡河奇襲により朝倉軍が大勝。『朝倉始末記』によると、加賀に戻れた門徒は10万に満たなかったと記されている。また合戦後、越前での一向宗本願寺派の布教は禁じられ、吉崎御坊(北陸における一向宗の一大拠点)を始め大寺院は破却、僧侶も追放となる。以降、朝倉氏と一向一揆勢は約60年間対立が続いた。
◆豊原寺
泰澄創建の天台宗の古刹。室町期には“豊原三千坊”と呼ばれる大勢力を抱えていた。九頭竜川の戦いでは一向宗に対抗して朝倉軍に加勢し、一揆の攻撃目標となる。朝倉氏滅亡後に起こった越前一向一揆で一向宗に降伏。一揆鎮圧後に織田信長の命によって焼き討ちに遭う。その後はかつての勢いを失い、明治2年(1869年)に廃寺。
◆熊坂長範物見松
伝説的な大盗賊・熊坂長範が街道を行く人々などを品定めしていたとされる巨木。詳細は自サイト【熊坂超物見松跡】を参照。
アクセス:福井県あわら市中川