【おたてはちまんぐう】
前九年の役(1051~1062年)で源頼義親子に敗れた安倍氏は滅亡し、その家臣も散り散りとなった。その中の一人、黒鳥兵衛詮任は鳥海山に隠れ住み、天狗の下で修行を積むことで大風を起こしたり真夏でも雪を降らせる妖術を体得した。そして応徳元年(1084年)数百もの手勢を引き連れて越後に侵入、五十公野城を拠点として瞬く間に勢力を伸ばした。
領地を奪われた領主たちは朝廷へ窮状を訴え、朝廷も北畠中納言時定を総大将とした征討軍を派遣する。しかし三日三晩の戦いの末に中納言は討死するも、その前に佐渡に流罪となっている源義綱を迎え入れるよう進言しており、この言に従って義綱が新たな大将として討伐を推進した。
源義綱と黒鳥兵衛が最初に相見えるのは永長元年(1096年)のこと。この時は兵衛の妖術によって散々に義綱軍は打ち破られている。しかし兵衛の居城である五十公野で義綱方に内応する者があり、鯵潟城(新潟市西区味方あたり)へ居城を移すことになる。
そして最終決戦は長治2年(1105年)。鯵潟城を攻める義綱軍は兵衛の妖術である大雪に進軍出来ずにあったが、その時つがいの鶴が木の枝を足に掴んで沼を渡り歩く姿を見て“かんじき”を作り、これによって兵が一気に進軍して城を陥れることに成功した。兵衛は最後に打って出たが、義綱の放つ矢に身体を射抜かれた。しかし兵衛も最期の力で矢を放ち、油断した義綱の脇に致命傷とある傷を負わせると、自ら首を刎ねて絶命したのである。(別伝では後三年の役で功を成した源義家が退治たという話もある)
黒鳥兵衛の首は塩漬けにされ土中深く埋められた。しかし妖術を操る者である故に祟りを怖れ、その上に社を建てた。それが現在の緒立八幡宮である。実際、現在の緒立八幡宮も直径30mの円墳の上に建てられており、この円墳は4世紀後半頃に造られたものであるとされている。
この古墳を始めとして、この緒立八幡宮の境内には「八幡山七不思議」と呼ばれる、黒鳥兵衛にまつわる不思議がある。
・兵衛の死骸
黒鳥兵衛の首は塩漬けにして石棺に入れ埋められたが、その後海水と同じぐらい塩辛い水が湧き出るようになった(現在は緒立温泉の源泉となっている)
・矢竹
黒鳥兵衛の祟りがあるため、源義綱が威儀を正して八幡山より矢を放ったところ、落ちた矢がたちまち枝葉が生えて竹となり、これ以降兵衛の祟りは鎮まった
・胴鳴
一旦黒鳥兵衛は鎮められたが、時を経て、秋の雨の日前日などになると雷が響くような音がし、兵衛の胴が首を求めて鳴るとされる
・兵衛の名を忌む
この地で兵衛の名を呼ぶと神罰によって災いが起こるため、地名に兵衛がつく場所はない
・浮島
八幡宮の山(古墳)はどんな洪水でも沈むことはなく、また葦を地面に挿すとどこまでも刺さった
・地面積
山の上は20間四方の面積だが、幾万の兵が集まっても大丈夫であり、また洪水で多数の村人が避難しても問題がなかった
・霊泉
社殿入り口に絶えることなく冷泉が湧き、万病に効く
<用語解説>
◆源義綱
1042-1132。源頼義の次男。通称は加茂次郎。一時は兄である八幡太郎義家を凌ぐ勢力となったが、義家の跡を継ぎ河内源氏の棟梁となった義忠を暗殺した嫌疑が掛かり、これに抵抗して兵を動かしたため追討され、天仁2年(1109年)佐渡へ流刑となる。その後再び佐渡で追討を受け、自害。
◆緒立温泉
文久3年(1863年)、大病をしていた娘が「緒立八幡の境内に湧く霊泉にひたれ」との夢のお告げを聞き、実際に3日間水浴すると病が癒えた。これ以来村の者が湯治場を作ったのが、緒立温泉の始まりとされる。泉質は含重曹食塩水、20℃前後の水温である。
アクセス:新潟県新潟市西区緒立