【ちえこうじ せんにんづか】
長宗我部元親が土佐一国を統一したのは、天正3年(1575年)に一条兼定を四万十川の戦いで撃退した時とされる。これにより土佐西部(幡多郡)を支配した長宗我部家はその後、この地を拠点として伊予国への侵攻を開始する。
阿波方面への侵攻とほぼ同時期に始まった伊予侵攻であるが、しばらくは一進一退の膠着状態が続くことになる。ようやく戦況が長宗我部有利に動くのは、天正11年(1583年)のことである。
土佐と境を接する御荘(勧修寺)氏が攻勢を仕掛けて土佐へ侵入しようとした時、逆に戦端を開いたのが長宗我部家の武将・十市備後守宗桃である。備後守は御荘氏の支城を夜襲で落とすのに成功する。これに反応したのが、備後守と共に伊予侵攻の先陣を任されていた宿毛右衛門大夫である。備後守よりも最前線にある宿毛城番の職にあった右衛門大夫は、先を越されたことを良しとせず、急いで手勢を率いると、御荘氏の支城である緑城を攻め立ててわずか3日で落としたのである。この電光石火の戦いで敗れた御荘氏は城に立て籠もるが、翌年に降伏することになる。
智恵光寺にある千人塚は、緑城の攻防で戦死した両軍の将兵の墓であるとされる。元は各所に散らばっていたものを集めた五輪塔群であり、はじめは100基を超える数があったが、現在では50基余りが残されている。
<用語解説>
◆土佐一条氏
応仁2年(1468年)に関白・一条教房が土佐に下向して興った。後に土着して、戦国大名となる。一条兼定は5代目にあたる。兼定が長宗我部元親によって追放された後も家名は続くが、完全に傀儡となる。長宗我部家滅亡後に土佐を離れたため断絶。
◆御荘氏
青蓮院門跡の荘園(御荘)に坊官の谷氏が入って御荘氏を名乗る。戦国末期には、土佐一条氏の家臣であった勧修寺氏の一族の町氏が名跡を継いで、御荘氏を名乗っている。長宗我部氏が豊臣秀吉によって土佐一国に所領を減らされた後、御荘氏は土地を追われて京都へ戻ったとされる。
◆十市備後守
本姓は細川。南北朝時代の室町幕府2代管領・細川頼之の10代の子孫を称する。元親の父・国親の代に長宗我部家に従い、名家として遇される。主に伊予侵攻に参加する。
◆宿毛右衛門大夫
長宗我部氏の一門衆(元親の従兄弟の子とされる)。長宗我部元親の土佐統一後、宿毛城の城番となり、主に伊予攻略の指揮を執る。長宗我部盛親の代に家老となる。長宗我部氏滅亡後も盛親に従い、大坂夏の陣にも参陣している。
アクセス:愛媛県南宇和郡愛南町緑