【ふえききば】
武田信玄の生涯最後の戦場は、三河国の小城・野田城であった。
前年の秋より始まった“西上作戦”と呼ばれる怒濤の軍事行動で、遠江国にあった徳川家康の勢力を完膚なきまでに打ち破ると、年明けの元亀4年(1573年)にはついに三河に主力軍が攻め入った。その数は約3万とも言われた。それに対して、野田城は徳川方の武将・菅沼定盈率いる500足らずの兵力。ところが、武田方は力攻めをおこなわず、金堀人足によって水の手を断ち切って1ヶ月以上掛けて攻略したのである。さらに武田軍はしばらく近くの長篠あたりに留まり、遂には本国へと転進を始め、その途上で武田信玄は死を迎えるのであった。
この信玄の死については病死説が有力であるが、一説では“野田城攻めの際に銃撃を受け、その傷が元で亡くなった”と流布されている。早くは『松平記』に記載され、さらに『菅沼家譜』でも取り上げられ、一編の美しい物語として編まれている。
落城寸前の野田城内から、毎夜のように美しい笛の音が流れていた。村松芳休の笛は城内の者はもちろん、敵方である武田勢の心も奪うほどのものであった。そのような時に、菅沼家の家臣で鉄砲の名手であった鳥居三左衞門(半四郎)は、城の堀端に紙が付けられた竹が立てられているのを見つけた。不審に思った三左衛門は、昼の内に狙いを定めて鉄砲を備え付けると、夜を待った。そしてその夜、いつものように笛の調べが流れいよいよ最高潮を迎えようとした時、一発の銃声が鳴り響いた。武田の陣がわずかばかり動揺したかのようにざわめいたが、それきり何も起こらなかった。しかし三左衛門が狙いを定めた位置は、敵の大将・信玄が笛の音を聞くために設けた席であり、放たれた銃弾は確実に信玄の右肩に命中していたのである。この傷が元で武田軍は本国へ取って返さざるを得なくなり、信玄は帰還することなく、信州駒場で亡くなったのである。
野田城跡に隣接する場所に、法性寺がある。この寺の境内となる高台の一画に、信玄が狙撃された場所が残されており、一名“笛聞場”と称され、祠などが置かれている。寺の本堂などがある場所はちょうど谷間となっており、当時の堀にあたる。高台のあたりは、その谷間(堀)を挟んでちょうど野田城跡と同じ高さになっており、まさに伝説と同じ立地となっている。法性寺には、他にも野田城の戦いの戦没者供養碑や、野田城の城門の遺構とも言われる山門がある。また鳥居三左衛門が狙撃に使った鉄砲とされるものが、設楽原歴史資料館にある。
<用語解説>
◆武田信玄の西上作戦
元亀3年(1572年)9月末より翌年4月の信玄死去までの間におこなわれた軍事行動。2万を超える主力部隊は遠江国を席捲(3日で小城1つを落とすほどの勢いとされる)して、12月に徳川家康を三方ヶ原の戦いで打ち破る。さらに翌年1月に別働部隊が展開する東美濃方面に合流するように三河に進軍し、2月には野田城を攻め落とす。その後は信玄が重篤となったために動きを止め、3月に本国の甲斐へ引き揚げた。この作戦は、織田信長包囲網を画策した足利義昭の要請に応えたものとされ、その目的は上洛であったとも、あるいは遠江・三河・東美濃一帯の支配権獲得のためとも言われる。
◆菅沼定盈
1542-1604。野田菅沼氏の当主。一族である他の菅沼氏が武田氏につくなどしたが、桶狭間の戦い後より徳川氏に一貫して仕える。野田城の戦いでは武田氏に降伏して捕虜となるが、同年に人質交換で徳川氏に帰参。長篠の戦いでは、別働隊として鳶ヶ巣山奇襲に成功する。その後徳川氏譜代大名となる。
◆『松平記』
慶長年間(1596~1615年)頃には成立とされる。徳川家康生誕の頃から、正妻・築山殿の死の頃まで、約40年ほどの松平(徳川)家の記録を集めている。
◆『菅沼家譜』
延宝5年(1677年)成立。菅沼家の家歴を記す。
アクセス:愛知県新城市豊島 法性寺内