【くどじ】
津軽三十三観音霊場の第一番札所。開山開基は不詳であるが、一説によると坂上田村麻呂が阿闍羅山に建立した寺院を、鎌倉時代に円智法印が再興。さらに時を経て津軽藩の庇護を受け、慶長18年(1613年)に現在地に移転。そして寛永10年(1633年)に久渡寺という名に改められている。
弘前の市街地から少し離れた場所にあり、さらに200段を超える長い階段を上ったところに寺がある。静寂な霊場の印象が強いが、ここには霊的なものと深く繋がった伝承がいくつか存在する。
平成11年(1999年)に国の無形民俗文化財に指定された「オシラ講(王志羅講)」がある。“オシラ様”の信仰は東北各地にあるが、津軽のというか久渡寺のオシラ様信仰は非常に独特のものがある。その最も際立った特徴は、各家に祀っているオシラ様を5月15日・16日に大祭という名目で久渡寺に集めて遊ばせる方法である(しかも毎年参ることでオシラ様の“位が上がる”システムらしい)。またオシラ様自体も異色で、他の地域よりもかなり大きく、1m近い大きさとなっている。さらにオセンダクとして着せていく衣装も派手なものが多く、頭の部分には冠などの装飾品も着けられる。ただこの行事自体はさほど古いものではなく、明治30年頃に住職によって始められたとされている。それでも今や津軽のオシラ様といえば、この久渡寺の方式が代表である。
久渡寺の年中行事には、他にも不思議なものがある。旧暦の5月18日に1時間限定で行われる、「幽霊画の公開」である。この絵は円山応挙の作で、彼の妻の幽霊であるとされる。寺伝によると、実際の幽霊を見たことがない夫に対して妻が自ら命を絶って幽霊となり、応挙が目の前に現れた姿を写しとったのだという。しかもこの公開日には必ず雨が降ると言い伝えられており、実際わずかの時間でも雨が降るらしい。
そして境内にはまことしやかな怪異の伝承も残る。階段を上りきった正面にある観音堂があるが、その隣に名もない小さな池がある。言い伝えによると、この池のほとりで亡くなった親族や友人の名を呼ぶと、水面にその人物の顔が映し出されるという。あるいは池を覗き込むと、自分の死に際の顔が見られるという。
<用語解説>
◆阿闍羅山
弘前市の南東、大鰐町に位置する山。平安初期には山腹に阿闍羅千坊と呼ばれる一大修行場があった。現在は冬スキーのメッカとして有名である。
◆オシラ様
東北地方の農家を中心に信仰されている神様。蚕の神、馬の神、女性の神と言われている。一般的なオシラ様については「遠野伝承園 御蚕神堂」のページを参照のこと。
◆円山応挙
1733-1795。円山派の祖であり、写生を重んじる画風で知られる。また“足のない幽霊画”を世に広めた絵師であるという伝説を持つ(久渡寺の幽霊画がその最初の1枚であるとされている。また応挙の“足のない幽霊画”の発端については、他にも複数説存在しているが、おおむね創始者である点では異論は少ない)。
追記:2021年5月に久渡寺の幽霊画(返魂香之図)が応挙の真筆であるとの報道があった。カリフォルニア大学バークレー校美術館にある唯一の真筆とされた幽霊画(1777年頃作成)より後に描かれたものとされる。この絵を天明4年(1784年)に寄進したのは弘前藩家老の森岡主膳元徳(1735-1785)で、その数年前に後妻・妾・孫を亡くし、また飢饉の失政の責を負って家老職を罷免される直前であったと推測されるとのこと。
アクセス:青森県弘前市坂元