【たくまづか】
国道162号線(周山街道)にある三宝寺橋南詰にいくつかの碑が置かれている。これが宅間塚であり、宅間勝賀の終焉の地とされる。
絵仏師の宅間勝賀は、栂尾高山寺の明恵上人に深く帰依していた。この頃、明恵上人の法要を聴聞するために、春日明神と住吉明神がしばしば訪問すると言われていた。それを聞いた勝賀は、是非その二神の姿を絵に残したいと思い、上人にその場に居合わせたいと懇願した。しかし二神の姿は上人以外には誰にも見えず、おそらく普通の人間が見ることが出来たとすれば、神罰が下って死に至るのではないかと諭した。それでも勝賀は構わないと言ったため、二神はその志を汲んで、ついに勝賀が居合わせる前にも姿を見せたのである。
春日明神と住吉明神の姿を絵にした勝賀は、喜び勇んで栂尾を辞して京へ戻っていった。ところがその途中、この場所で落馬するとそのまま絶命してしまったのである。やはり二神を見てしまったために神罰を受けたのである。
その後、この地に宅間勝賀の墓が作られ、さらには終焉地であることを示す石碑も建てられたのである。
<用語解説>
◆宅間勝賀
生没年未詳。従来の仏画に宋画の技法を取り入れた宅間派の祖の一人。平安末期から鎌倉初期に掛けて、神護寺や東寺の修造事業で筆を振るったとされる。代表作は東寺収蔵の「十二天屏風」(国宝)。
◆明恵
1173-1232。華厳宗中興の祖。建永元年(1206年)に後鳥羽上皇より栂尾の地を賜り、高山寺を創建する。学理より戒律の実践、釈迦への回帰(天竺渡航を企図したことも)、華厳密教の教えの構築、若き日に求道のために右耳を切り落とすなど、仏教の革新を行動に示し続けた。また19歳から死の前年まで己の見た夢を記録し続けたことでも有名。
アクセス:京都市右京区鳴滝宅間町