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末多武利神社

【またふりじんじゃ】

小社ではあるが、それなりに整えられた神社である。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文を祀る。

忠文は藤原式家の出身で、長らく国司などの地方官を務めた後、高齢ながら参議となった。そしてその直後の天慶3年(940年)に起こった平将門の乱にあたって、征東大将軍として朝廷軍の最高指揮官に就任するのである。ところが、忠文らが関東に到着する前に、平将門が藤原秀郷・平貞盛によって討ち取られる事態となる。

徒労に終わった遠征から帰ると、さらに問題が起こる。乱鎮圧の恩賞を巡って、戦闘に参加しなかった忠文の処遇をどうするかで公卿の意見が割れたのである。中納言・藤原師輔は恩賞を与えるべきであると意見したのに対し、大納言・藤原実頼は戦っていないから恩賞を与えるべきではないと主張した。結果、実頼の意見が通り、忠文は恩賞に与ることが出来なかったのである。

これを恨みに思い続けて忠文は亡くなったのか、その後、実頼に不幸が訪れる。忠文が亡くなった直後、村上天皇の女御であった娘が、子をなさないまま死去。同年、さらに嫡子の敦敏が病死。これによって忠文は“悪霊民部卿”とも呼ばれることとなり、その慰霊のために建てられたのが末多武利神社である。同時代の菅原道真・平将門と比べると強大ではないが、れっきとした祟り神である。

<用語解説>
◆藤原忠文
873-947。藤原式家の出身。天慶3年(940年)に参議。その直後に平将門の乱平定のために征東大将軍に任ぜられるが、到着前に乱が終わったため恩賞も受け取れなかった。翌年、藤原純友の乱平定のために征西大将軍に任じられ、純友を捕縛する。その後、民部卿となる。

◆藤原実頼
900-970。藤原忠平の嫡子。氏の長者として摂政・関白・太政大臣を歴任。しかし村上天皇の女御であった娘の述子が子をなさないまま死去、対して弟の師輔の娘・安子が村上天皇の子(後の冷泉・円融天皇)をなしたため、政治の実権は師輔の家系に奪われていった。この実頼系の凋落は藤原忠文の祟りによるものとされている。
また実頼の嫡子である敦敏の死去も忠文の祟りとみなす場合もあるが、敦忠の実母が藤原忠平の娘であるため、菅原道真の祟りによる短命との見方もできる(道真は忠平の讒言によって大宰府左遷となった)。

アクセス:京都府宇治市宇治又振

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