【しょうねんじ ねこでら】
称念寺は慶長11年(1606年)、松平信吉の帰依を受けた嶽誉上人によって創建された寺院である。その寺号は嶽誉上人が私淑する称念上人から採られたものであるが、現在では通称である“猫寺”の方が通りが良いかもしれない。
この通り名は、有名な「猫の報恩譚」にちなむものである。
松平信吉の庇護を受けて寺領300石を有していた称念寺であったが、信吉の死後、松平家と疎遠となると寺領からの収入も途絶えてしまうようになった。そして3世住職の還誉上人の時代になると、毎日托鉢を行って糊口を凌ぐほど困窮したのである。そんな中でも上人は1匹の猫を飼い続け、自分の食事を削ってても食事を与えていた。
ある晩、托鉢で京の市中を周って疲れ果てた上人が寺に戻ってくると、本堂の縁に、美しい着物姿の姫君と思しき女性が扇を手にして舞っているではないか。月明かりの下で舞う姫君に吃驚する上人をさらに驚かせるものは目に飛び込んできた。それは本堂の障子に映った姫君の影が、まさしく猫のものだったのである。姫君の正体が自分の飼っている猫であると気付いた上人は、途端に怒りを覚えて「足を棒にしてまで托鉢をしてその日の食事を得ているのに、暢気に踊りをおどっているとは何事であるか」と猫を諭して追い出したのであった。
数日後、上人の夢枕に猫が現れた。そして「明日、寺に人が訪ねてくる。丁重にもてなせば、必ず寺は栄えます」と告げて消えた。不思議なことに、翌日、疎遠であった松平家から使者がやって来て、亡くなった姫君がこの寺に葬って欲しいとの遺言があってやって来た旨を伝えたのである。それ以降、再び寺は松平家の庇護を受けることとなり、栄えたとされる。
現在、寺の境内には、地面と平行に太い枝が20m近くも伸びる松の木がある。これは、恩返しをした猫を上人が偲んで植えた松とされ“猫松”と称される。見事に伸びる枝はどんどん本堂に向かっており、それが本堂の軒にまで達すると、再び猫が現れて寺を助けるという言い伝えが残されている。
また猫によって寺勢を盛り返したことが縁となり、称念寺はかなり古くから動物供養を執りおこなう寺院としても知られている。現在でも動物供養のための観音堂や墓地などが整備されている。
<用語解説>
◆松平信吉
1580-1620。徳川宗家の庶流である“十八松平”の一つ、藤井松平家の3代当主。生母は、徳川家康の同母妹の多劫姫であり、家康の甥に当たる。称念寺創建時には土浦藩4万石の藩主。その後、高崎藩・篠山藩に移封される。
信吉の死後、藤井松平家は長男の山城守家と、次男の伊賀守家の2流に分かれる。山城守家は篠山藩・明石藩・川越藩と転封、また伊賀守家は田中藩・掛川藩・丹波亀山藩・岩槻藩などへ転封となる。この猫の報恩譚に登場する姫君はいずれの家中のどの時代の人物であるかは不明であるが、おそらく京都に近い地に藩があった頃の話であると推測される。
◆縁誉称念
1513-1554。浄土宗の僧。江戸の出身で関東で修行を積む。知恩院の南に一心院を建立し、念仏三昧の捨世派を形成した。(捨世派は、江戸時代中期に派内の争いから知恩院の管理下に置かれた。時代が下って、戦後に「浄土宗捨世派」として6ヶ寺が属することになる)。
アクセス:京都市上京区寺之内通浄福寺西入ル西熊町