【あまはらしかいがん よしつねいわ】
平家追討に成功した直後より、源義経は兄である頼朝と対立し、やがて全国に追捕の令を出されるに至って京都より脱出、奥州藤原氏を頼って逃避行をおこなう。この時に辿った経路は諸説あるが、最も有力なものが北陸道を山伏・稚児姿で東大寺再建の勧進をおこなうと見せかけて北上したとされるものである。それ故、石川から富山にかけてさまざまな義経伝説が残されることになる。この義経岩もその有名なものの一つに挙げられる。
越中にまで辿り着いた義経一行であるが、この海岸で急な雨に遭ってしまった。そこで弁慶が大きな岩を持ち上げ、一行が雨宿りできるようにしたというのが、この義経岩である。実際、この巨石は海岸に面した部分が大きくせり出しており、人が雨宿りをするには十分なスペースがある。また岩の頂上には義経神社が設けられている。
このあたりの地名である雨晴は、この義経一行の伝承に由来するものであり、地名の方が後から付けられたケースの1つである(雨晴の名称が文献に現れるのは江戸中期ということらしい)。そして現在雨晴は、海から立山連峰を臨む絶好の景観地として名を馳せている。
アクセス:富山県高岡市太田