【せいがんじ】
創建は健保3年(1215年)。宇都宮頼綱によって開基された。その後天正元年(1573年)に宇都宮氏の重臣で一族でもあった芳賀高継が清巌寺と名を改め、現在地に移転させている。
この寺の山門の奥、本堂前にある門の横に1本のヒイラギの木がある。この木にまつわる奇怪な伝承が残されている。
昔、3月15日に二荒山神社では例祭として「花の会」という祭が執りおこなわれていた。この祭の習わしとして、宇都宮氏の郎党の子が5人で舞を舞うことになっていた。その年も同じように子供らが稚児として舞を披露していた時、突然一陣の突風が吹き荒れ天狗が現れると、一人の稚児を目にも留まらぬ素早さで引っさらっていったのである。人々は神隠しに遭った子を探し、やがて白沢というところで発見したが、既に息絶えていたという(現在でも白沢地区には“児ヶ坂”という地名があり、その辺りで遺体が発見されたことで名が付いたとされる)。
ほどなくして人々はこの稚児の供養にと、清巌寺にヒイラギの木を植えて墓標とした。これが“稚児の樹”と呼ばれ、現在でも残されている。その後「花の会」では、稚児の舞は4人で行われるようになったとされる。
<用語解説>
◆宇都宮頼綱
1172-1259。宇都宮氏第5代当主。奥州征討で功を上げるなど、鎌倉幕府の有力御家人であった。妻の父であった北条時政の政争に連座して、罪を問われ出家し、以降京都に住む(出家後に清巌寺を始め各地に寺院を建立している)。歌人としても名高く、同族であった藤原定家と親交が深く、娘を定家の息子・為家に嫁がせている。
◆芳賀高継
1526-1592。芳賀氏は古来より、下野武士団の中核をなして宇都宮氏に仕えていた。戦国時代はたびたび宇都宮氏と衝突し、抗争を繰り広げている。高継は当主・宇都宮国綱の弟を養子とするなどしていたが、最終的には国を追放されている。
◆二荒山神社
下野国一之宮。日光と宇都宮にあるが、この伝承に登場する神社は、宇都宮氏が座主を務める宇都宮二荒山神社である。「花の会」は現在では「花会祭」として4月11日に執りおこなわれている。
アクセス:栃木県宇都宮市大通り5丁目