【みしまじんじゃ】
那佐湾は、約3kmほどの長さの那佐半島と四国本土に挟まれるように細長く奥に入り込んでいる。その奥まった最深部に当たる場所には2つの小島があり、陸に近い方に位置する島は“二子島”と呼ばれている。ここには戦国大名の長宗我部氏にまつわる伝説が残されている。
長宗我部元親の末弟に島弥九郎親益という者があった。兄を助け武功を立てていたが、病を得て摂津有馬温泉へ療養することとなった。配下の者30名ほどを連れて海路で摂津へ向かったが、途中で風雨が強くなったため、那佐湾の奥へ避難して船を停泊させた。それを知ったのは、長宗我部家に対して敵意を持っていた、この土地を支配する海部友光であった。供回りが少ないことをよいことに100騎ばかりで船を攻めたのである。武装をしていなかった弥九郎の供回りはたちまち討ち果たされてしまい、弥九郎も二子島に上陸するがもはやこれまでと覚悟して自刃したのである。そしてたまたま下船していて難を逃れた渡辺八太夫が、弥九郎の遺骸を二子島に丁重に葬った。これが三島神社の始まりであるとされている。元亀2年(1571年)3月のことである。
報を聞いた長宗我部元親は激怒し、海部氏をいずれ打ち倒そうと時を待った。それが叶うのは天正3年(1575年)に土佐一国を平定した直後、対外侵略の緒戦となる。長宗我部氏による阿波への侵攻はまさに弥九郎の死が契機であったと言えるだろう。
三島神社はしばらく二子島にあったが、その後移転。現在では吉野神社に合祀されている。ただ吉野神社境内には、島弥九郎らの鎮魂碑が建立されてある。
<用語解説>
◆島親益
?-1571。長宗我部国親の四男。一名、長宗我部親房。国親が家臣の島某の妻に手を出して生まれたために島姓を名乗る。土佐統一戦である本山氏との戦いで功があったとされるが、一説では元来病弱であったとも言われる。
◆海部友光
生没年不詳。海部氏は阿波南部の豪族として勢力を伸ばし、阿波国守護の細川氏や三好氏と誼を通じた。友光は永禄年間(1558-1570年)に海部城を築城している。また島弥九郎襲撃を命じたが、長宗我部氏に滅ぼされた安芸氏と親密な関係にあったため、停泊した船を長宗我部側の偵察と思い込んだためと諸説ある。その後、長宗我部氏の侵攻によって海部城は落城。その際友光は遠征中で不在であったため、そのまま紀伊にあった縁者を頼って落ち延びたとも言われる。
アクセス:徳島県海部郡海陽町那佐