【しんかいのもり(しがいのもり)】
農地が広がる一画に、不自然な形で小さな森が残されている。近くを走る県道2号線からもすぐに分かるぐらいに目立つ森である。これが新開の森である。しかし“シガイの森”という物騒な名前の方が通りは良い。
おそらく“新開”が転訛して“シガイ”と呼ばれるようになったと推測できるが、このような名前に至る理由は、この地が織田信長の時代に処刑場であったという噂から出たものであるのは間違いない。実際、この森から直線で2km足らずの場所に安土城跡が残されている。また現在の県道2号線は、信長の時代には安土と京都を結ぶ主要道として機能していたとされる。刑場が置かれる条件によく当てはまる場所であると言えるだろう。
だが新開の森の中にある石碑を見ると、ここが神社の御旅所であることが判る。「多くの人間の血を吸った悪所である故に、森を取り払うことが出来なかった」とする噂は誤りであり、御旅所という禁足地として伝えられている故に森が残されたと見るべきであろう。
一方で刑場ではないとも言い切れない側面があり、この森の裏手(県道の反対側)には小さな祠があり、そこは建部紹智と大脇伝助の殉教碑とされている。ここで二人が斬首されたとし、供養のための地蔵が建立されているのである。
天正7年(1579年)に安土城下で起こった「安土宗論」の発端となったのが、建部紹智と大脇伝助の両名である。法華宗徒であった二人は、安土で説法をしていた浄土宗の霊誉玉念に議論をふっかけ、騒ぎを大きくした。最終的に浄土宗側と法華宗側が織田信長公認の宗論に及び、浄土宗側が制したため法華宗側は詫び証文を書かされた。さらに騒ぎを引き起こした大脇伝助をただちに斬首し、堺に逃げていた建部紹智も捕らえられて安土にて斬首となった。この2名の処刑に関わる地が新開の森であるとされるのである。
この場所で両名が首を刎ねられたかの明確な証拠はないが、少なくともこの場所で晒し首があったと考えるのはやぶさかではない。
<用語解説>
◆安土宗論
浄土宗の霊誉玉念の説法に対して、法華宗の建部紹智と大脇伝助が論難したことを端に起こった事件。安土城下で両派が宗論をおこなうことを織田信長が知るところとなり、騒ぎが大きくなった。結果としては浄土宗側の問に法華宗側が沈黙したため、織田信長が法華宗に対して他宗派への批判を禁じた。
信長による宗教弾圧の一つに数えられるが、話を聞いた当初は宗論をおこなわないように両者に勧告しており(浄土宗側が受諾したのに対して法華宗は拒否して宗論実施を主張した)、また一向宗に対するほどの徹底的弾圧ではなく騒動の張本人のみ処刑し、他の宗徒には恥罰を与えるに留めている点から、自分の統制に従わない者への見せしめの色合いが強いと考えてもよい。
アクセス:滋賀県近江八幡市安土町常楽寺