【せみまるじんじゃ】
これやこの 行くも帰るも わかれては
知るも知らぬも 逢坂の関
『百人一首』の中でも最も有名な歌の1つであるが、この歌の詠み手である蝉丸も、札に描かれた特異な風貌から印象深い人物となっている。
しかし、この蝉丸は平安前期頃の人物というだけで生没年も不詳、そしてその素性も謎に包まれている。分かっているのは、盲目の琵琶の名手であり、逢坂の関に世捨て人のように暮らしていたということだけである。出自については、次の逸話から主に2つの説に分かれているが、いずれも伝説の域を出ないものである。
『今昔物語』には次のような物語がある。管弦の名手であった源博雅は、逢坂の関に庵を結ぶ蝉丸という者が宇多天皇の皇子であった敦実親王の雑色(下人)であり、親王の下にあって琵琶を習い覚えて名手であることを聞きつけた。この蝉丸だけが知っているという秘曲の流泉・啄木を是非聞いてみたいと思い、博雅は逢坂山に通い詰める。そして3年経った名月の夜、蝉丸の言葉をきっかけにして2人は芸道について語り合い、博雅は琵琶の秘曲を伝授されるのである。
能楽の『蝉丸』では次のような話となる。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子であったが、生まれつきの盲であったため、逢坂の関に粗末な庵を与えられて捨てられる。前世の報いのため、来世の幸せのために、従容と運命を受け入れる蝉丸。そこへ一人の狂女がやってくる。生まれつき髪の毛が逆立って櫛が通らない異形故に遠ざけられ狂乱した、蝉丸の姉宮である逆髪宮であった。逆髪は琵琶の音色に惹かれて庵を訪ねると、そこには弟宮の蝉丸があった。薄幸の姉弟はそこで互いの不運を嘆き、慰め合う。しかし時が来て、逆髪宮は別れを告げて、いずこともなく去っていってしまう。
現在、逢坂の関周辺には蝉丸を祀る神社が3つある。関蝉丸神社はその名前から分かる通り、塞の神(道祖神)の性格も持っており、上社には、道祖神である猿田彦命も祀られている(下社は豊玉姫命)。ただこれらの神社は、盲目の琵琶法師の嚆矢とする蝉丸が祀られているために、音曲芸道の神の性格が非常に強く、平安時代中期には全国の音曲芸道の勅として、蝉丸神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
<用語解説>
◆源博雅
918-980。醍醐天皇の孫。管弦の名手として知られ、蝉丸との逸話の他にも、朱雀門の鬼から名笛を貰い受けたり、羅城門から琵琶・玄象を探し出したりするなど、音曲にまつわる伝説がある。
◆逆髪宮
醍醐天皇の第三皇女とされるが、全くの架空の人物(蝉丸は勅撰和歌集に数首採用されるなど、素性は不明ではあるが実在の人物であるとされる)。逆髪という名については「坂上」あるいは「坂神」のメタファーとみなすことも可能である。
アクセス:滋賀県大津市逢坂一丁目(関蝉丸神社上社・下社)
滋賀県大津市大谷町(蝉丸神社)