【ひよくづか】
長崎との県境、有明海に面して竹崎島という小さな島がある。一本の県道で陸続きとなっているが、その島の入口付近にある崖の上に、2基の供養塔が並んで置かれている。これには、この島にある竹崎観世音寺にまつわる奇瑞と、若武者とその許嫁の悲恋の伝説が残されている。
有明海を挟んだ柳川に城を構える立花宗茂の家臣に、真之介という名の若武者がいた。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮に侵攻し、立花宗茂も3000の兵を率いて渡航した。真之介ももちろん派兵されたが、母親と許嫁の若姫は、真之介の無事を祈って竹崎観世音寺に月参りを欠かさなかった。
しかし真之介は朝鮮の地で敵の地雷によって大怪我を負い、両目を失明してしまう。だが一命はとりとめ、何とか故郷の土を踏むことが出来た。母と若姫は、悲惨な状況であったが命あって帰還したことを喜び、竹崎観世音寺のおかげと真之介を連れてお礼参りをしたのである。
そこで真之介は、法印から「光は失ったが、心眼を開いてこの世界を見ることが出来る」という法話を聞き、その場で一念発起して仏門に入ることを決心する。そして若姫に対して愛刀を形見として渡して、「目の見えないような自分のことを忘れて、もっと良い縁を結んで欲しい」と言い、別れを告げたのである。
それ以降、真之介は真海と名乗り、一心に竹崎観世音寺で修行に励むこととなった。一方、若姫は真之介の真意を理解しながらも諦めきれず、ついに竹崎観音に願を掛け、真之介の目が再び見えるように千日間柳川から竹崎島まで灯籠を流すことを誓ったのである。
そして満願の日。若姫の願掛けの噂を聞いていた真海であったが、最後の燈籠が竹崎島に流れ着いた時、自分の目に灯籠の灯りが飛び込んでくるのを覚えた。若姫の願いは聞き届けられたのである。思い人に光が戻ったことを知った若姫は、お礼参りに竹崎観世音寺を訪ね、そこで真海と再会した。だが、真海は既に仏門に入った身故に、これを最後にお目に掛かることもないと告げたのである。
固い決心を聞いた若姫は、その夜、形見として渡された短刀を胸に抱き、自ら海に身を沈めた。書き置きに「慕う気持ちは変わりありません。不憫に思うなら、島の渡り口にある岩陰に葬ってください。そうすれば、毎日修行に出られる姿を見ることが出来ますから」とあった。そこで村人は、遺言通りに姫の亡骸を葬って、岩の上に墓を築いたのである。
その後、真海は竹崎観世音寺の法印の職に就いたが、ほどなくして病のために亡くなった。村人は、真海の墓を若姫の墓に並べることで、二人の想いを遂げさせてやったという。
現在一方の供養塔には、慶長4年(1598年)12月23日の日付と真海法印の名が刻まれているが、もう一方の供養塔には一切の銘が刻まれていない。法印という要職にあった僧の墓のそばに、女人の墓を置くことを憚ったためであると伝えられている。しかし人はこの2基の供養塔を「比翼塚」と呼び、現世で相思相愛であった男女の冥福を祈念するものとみなしている。
<用語解説>
◆竹崎観世音寺
行基によって建立されたとする古刹。平安時代以降も仁和寺の末寺として栄え、勅願寺にもなっている。また現在でも独自の伝統的な行事が執りおこなわれており、修正会鬼祭は国の重要無形文化財に指定されている。
◆文禄の役と立花宗茂
立花宗茂(1567-1643)は元は大友氏の重臣であったが、豊臣秀吉によって独立した大名に取り立てられる。当代屈指の名将と言われ、朝鮮へ出兵した文禄の役でも活躍する。特に名高いのは碧蹄館の戦いで、明軍本陣を脅かすまでの働きにより『太閤記』でも“鬼神も敵すべからざる”と評された。
アクセス:佐賀県藤津郡太良町大浦