【みょうこくじのおおそてつ】
日蓮宗の本山で永禄5年(1562年)に、三好長慶の弟・三好実休が日珖に帰依し、土地を寄進して開基した。その時には、既にこの地所に大蘇鉄の木が植わっていたという。その後、妙国寺は大坂夏の陣(1615年)と堺大空襲(1945年)の際に灰燼に帰すが、この大蘇鉄だけは奇跡的に焼け残っている。樹齢は推定で1100年、国の天然記念物に指定されている。
この大蘇鉄であるが、かの織田信長を震撼させたという曰く付きの存在である。この逸話が残されている『絵本太閤記』では、以下のような話となっている。
妙国寺の大蘇鉄は堺の町で知らぬ者がない存在であったが、突然樹勢が衰えて枯れ始めた。あれこれ手を尽くしたがどうにもならず、ついには京都の法華宗本山の高僧を集めて法華経を読経したところ、再び緑の葉を繁らすようになった。これを聞いた法華宗徒は法華経の法力を誇示し、その噂は信長のいる安土まで届いた。信長はその信徒の驕りに腹を立て、このまま放置しておくと政道が乱れると、この大蘇鉄を安土に運ぶよう命じたのであった。
安土に運ばれた大蘇鉄を見るや、信長はたいそう気に入り、城の広庭に植えさせた。ところがある夜、信長が目覚めると「妙国寺へ帰ろう帰ろう」と声がする。大いに怪しんで、森蘭丸を呼び出して正体を探らせた。すると声の主は大蘇鉄であると判ったため、先の枯死から甦った件も併せてこの木は妖怪であろうと、翌朝士卒を集めて切り刻んでしまうよう言いつけた。
翌日、配下の菅谷九右衛門が300名の士卒に斧を持たせ大蘇鉄を伐ろうと近寄ったところ、突然士卒たちは血を吐いて悶絶して倒れだしたのである。菅谷が驚き顛末を報告すると、信長はしばし黙り込み「魏の曹操は躍龍潭の梨の木を伐って死んだ。古木の霊は犯すべからず。この蘇鉄もこのまま堺の寺に返すべし」と言ってただちに妙国寺へ戻したという。
妙国寺の言い伝えでは、信長が家臣に切らせると赤い血のようなものを噴き出し、蛇のように身をよじらせたために、恐れをなした信長が返したとなっている。そして方々を切られて戻ってきた大蘇鉄はその後日々衰え、哀れに思った日珖が法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄の木から翁が現れ「鉄分を与え仏法の加護で蘇生すれば報恩する」と伝えた。そこで木の根元に鉄屑を埋めたところ、再び樹勢を取り戻したという。(この逸話から「蘇鉄」という名が付いたとも)
ちなみに『絵本太閤記』では、この大蘇鉄の怪異によって、ますます妙国寺の名は高まり、法華宗に改宗する者が激増。安土でも多くの者が法華宗徒なり、中には増長し他宗を攻撃する者が現れ、それが法華宗と浄土宗による安土宗論のきっかけとなったと記されている。また『絵本太閤記』を元に創作された浄瑠璃「絵本太功記」では、この妙国寺の大蘇鉄の怪異を発端として、法華宗の僧をかばいだてて懲戒を受けた武智(明智)光秀が本能寺の変を企てるという筋書きとなっている。
<用語解説>
◆妙国寺
開山は日珖。開基の三好実休が伽藍建立の前に討死したため、日珖の実父である堺の豪商・油屋常言が私財を出して建立している。また本能寺の変当日、徳川家康はこの妙国寺で一報を聞き、日珖から茶を勧められ、その後油屋常言の計らいにより堺を脱出している。
◆『絵本太功記』
寛政9年(1797年)初編刊行。初編が人気を博したため、最終的に7編84冊刊行される。この人気にあやかって作られたのが、同11年(1799年)の浄瑠璃「絵本太功記」である。
◆菅谷九右衛門
?-1582。菅屋長頼。織田信長の側近として奉行などを務める。本能寺の変の際、二条城にて織田信忠に殉ずる。
◆躍龍潭の梨
『三国志演義』の中の逸話。魏の曹操が宮殿を建てる際、躍龍潭にある梨の巨木を梁に使おうとしたが、斧の刃を立てることすら出来ない。報告を受けた曹操は怒り、自ら赴いて巨木を切りつけると血のような樹液が噴き出した。そして怖れる人々を前に「木が祟るとすれば私に祟るだろう」と言った。その後、木の神に切りつけられる夢を見てから、曹操は酷い頭痛に悩まされ、それが元で死んだという。
◆安土宗論
天正7年(1579年)。法華宗徒であった建部紹智と大脇伝介が、安土の浄蓮寺(浄土宗)住職の霊譽玉念に対して議論をふっかけたことから始まる。このいさかいが織田信長の耳に入り、多くの立会人の下で法華宗と浄土宗の宗論となった。最終的に法華宗が討論に敗れ、騒ぎを起こした2名は斬首(この供養碑は【新開の森】にある)、参加した僧は詫び証文を書かされることとなった。なお詫び証文を書かされた法華宗の僧の中に、妙国寺開山の日珖も含まれている。
アクセス:大阪府堺市堺区材木町東