【げんくろういなりじんじゃ】
「源九郎さん」の名で親しまれている、大和郡山の鎮守である。その名の由来は、源平の合戦の時代にまで遡る。
源義経は、平家を滅ぼした後、兄である頼朝と反目し、謀反人として追われる身となった。この逃避行の際、愛妾の静御前の持っていた“初音の鼓”を追い求める一匹の狐があった。この狐は、義経の家臣・佐藤忠信に化けて静御前に近づき、そしてその身辺を警護し、また義経の窮地も救う働きもした。実は、初音の鼓は、この狐の両親の生皮が張られており、それ故に親を慕って後を付けてきたのである。それを知った義経は、初音の鼓と共に“源九郎”の名をこの狐に与えたのである。
時を経て、戦国時代末期。大和郡山の城主となった羽柴秀長は、大和郡山の守護神となる神を探していた。ある時、城に宝誉上人を招いて帰依すると、守護神の件を相談。すると上人の夢枕に“源九郎”と名乗る翁が現れ、「城の南東に堂を建てて、そこで茶枳尼天を祀れば守護しよう」と告げた。秀長に告げるとさっそく堂を建て、宝誉上人が住職となり、源九郎茶枳尼天を自ら彫って安置した(現在の洞泉寺)。また城内には源九郎稲荷明神が祀られた。さらに享保4年(1719年)、城内にあった稲荷社は所縁のある洞泉寺に隣接する地に移転し、現在に至っている。
名のある狐であり、また町の守護神でもあるためか、源九郎狐にまつわる伝説は多い。その中で、大和郡山の城下にまつわる話。
慶長20年(1615年)に起こった大坂夏の陣で、大和郡山藩は大阪方の大野治房の攻撃を受け、城は落城し町も焼き払われようとしていた。ところが突然の大雨で、町は灰燼に帰することなく守られた。これは洞泉寺の住職が茶枳尼天に祈ったことで、源九郎狐が龍と化して雨をもたらしたとされている。
またある年の冬、城下町にある帽子屋に一人の女性が訪れ、子供ために3つの綿帽子を買っていった。代金は源九郎稲荷へと告げて。店の主人は後日神社へ代金を取り立てに行くが、神社ではそのような女性もおらず、帽子のことは誰も知らない話であると言うばかり。主人と宮司が押し問答をしていると、境内の隅に子狐が顔を出した。3匹の頭には、件の綿帽子が。主人は得心すると、代金を取ることなく神社を後にしたという。
<用語解説>
◆初音の鼓
狐忠信が登場する歌舞伎『義経千本桜』では、「桓武天皇の頃に雨乞いをしたが、その時に、大和国にいた千年生きた夫婦の狐を狩って、その生皮で鼓をあつらえた。太陽に向かって鼓を打つと雨が降り始め、人々が喜びの声を初めて上げたため“初音の鼓”と名付けた」とある。
◆羽柴秀長
1540-1591。豊臣秀吉の実弟。豊臣政権の中枢として活躍。大和郡山に城を構えるのは、天正13年(1585年)の四国攻めの論功行賞として100万石に及ぶ所領を得た時からである。
◆洞泉寺
天正13年(1585年)創建。開山の宝誉上人は、三河国にあった洞泉寺の住職であり、その寺の名をそのまま付けたものである。現在も創建時と変わらず、源九郎稲荷神社に隣接する地にある。
◆源九郎狐の伝説
上記の2つの伝説以外にも、大和郡山城内で羽柴秀長の要望に応えて壇ノ浦の戦いを再現して見せた話、菅田神社に棲み着いた小狐に加勢して大蛇を退治した話(この時に大蛇の体内から出てきた宝剣“小狐丸”が石上神宮に奉納されている)などが残されている。
なおその死についても諸説あり、大坂の陣の時に徳川方に味方したために豊臣方に毒殺された(この後に城主によって神社に祀られた)とも、年老いたために大和より暖かい和泉へ行ったが、その途中で疲れて竈の中で暖を取って寝ていたところに火をくべられて焼死したとも言われている。
アクセス:奈良県大和郡山市洞泉寺町