【みかどじんじゃ/つかのはらこふん】
神門神社は養老2年(718年)創建の古社である。祭神は大山祇神をはじめ複数となっているが、その中に百済の王族・禎嘉王が含まれている。
天平勝宝8年(756年)、政争のために百済の地から日本へ逃れてきた王族の一行があった。それが禎嘉王とその息子の福智王・華智王である。最初、王達を乗せた船は安芸の宮島あたりまで行ったが、半島からの追っ手を怖れて九州へ引き返した。そこで嵐に遭い、禎嘉王と華智王が乗った船は日向の金ヶ浜に漂着する。そこで良い土地を占い、浜から8里ほど西へ行った土地へ移り住むことになった。それが現在の神門であるとされる。
しばらくは落ち着いた日々を送っていた王達であるが、その住処はやがて追っ手の知るところとなり、多くの兵が送り込まれてきた。禎嘉王も地元の豪族である“どん太郎(あるいは益見太郎)”の援助を受けて応戦し、神門にほど近い伊佐賀で激しい戦いが繰り広げられた。しかし次子の華智王がその地で戦死を遂げ、劣勢の中で禎嘉王も矢を射られ傷つき、まさに討たれようとした時、駆けつけたのが長子の福智王であった。嵐のために漂流した福智王も日向にたどり着いて比木の地で暮らしており、父王の危機を知って兵を率いてきたのであった。やがて戦いは禎嘉王らが敵を撃退することで終結したが、矢の傷が元で禎嘉王は神門の地で亡くなったのである。この異国の王を神として祀ったのが神門神社であり、さらに王の墓とされる円墳が塚ノ原古墳であるとされる。
現在、この神社の隣には“西の正倉院”という、奈良の正倉院を忠実に再建した展示館がある。そこには正倉院所蔵の唐花六花鏡と同一品が展示されているが、それはこの神門神社所有の品である。その他にも32枚の銅鏡、さらには1000本を超える鉾が所蔵されており、百済の王族が祀られたという伝説を持つ神社らしい信憑性を醸し出している。また毎年旧暦の師走の時期(1月末頃)には、福智王が祀られているとされる比木神社から神使が訪れるという「師走祭り」がおこなわれ、かつての父と子の対面を模した伝統行事として今なお受け継がれている。
<用語解説>
◆百済
4世紀頃には朝鮮半島西部にあった国家。当時の日本と交誼を結び、古墳時代の日本に大陸文化を伝えた。その後同じ半島の新羅と対立、徐々に勢力が衰え、最終的に新羅と連合した唐によって660年に滅ぼされる。その際に多くの王族や貴族が日本へ亡命・帰化しており、また日本も国家再建のために派兵している(663年の白村江の戦いで大敗し撤退)。
神門神社の縁起で登場する天平勝宝年間には既に百済という国家はなく、また百済の王族にも禎嘉王という名はない。
◆西の正倉院
平成8年(1996年)完成。宮内庁保管の正倉院図を元に、細部にわたって忠実に再建されている。現在は神門神社所蔵の文化財及び師走祭りの資料を展示している。有料。
アクセス:宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門(神門神社)
宮崎県東臼杵郡美郷町南郷下名木(塚ノ原古墳)