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首壇

【くびだん】

天正18年(1590年)の奥州仕置によって改易となった葛西氏と大崎氏の旧領は、豊臣秀吉の側近であった木村義清・清久親子の領有するところとなったが、5千石の小身から一気に30万石の大名となったため強引な統治を行い、僅か1ヶ月で大規模な一揆が発生した。世に言う“葛西大崎一揆”である。

一揆勢に囲まれて佐沼城に立て籠もった木村親子は危急を知らせ、伊達政宗と蒲生氏郷が鎮定の軍を進めた。ところがここで不測の事態が起こる。伊達政宗が一揆を煽動しているとの密告が蒲生氏郷にもたらされ、共同の鎮定を拒否し、さらにその情報を秀吉の許に届けたのである。一方の伊達政宗は単独で木村親子を救出したが、それ以降は一揆勢とは積極的に事を構えず、むしろ秀吉側への釈明に追われることになる。

翌年上洛した政宗は何とか釈明に成功し、5月に帰国するとようやく一揆討伐に着手する。6月下旬に旧葛西・大崎領に入った伊達軍は籠城する一揆勢の頑強な抵抗に遭うが、ことごとく撫で斬りにして殲滅させていった。そして兵や百姓が数千人以上が立て籠もる佐沼城を包囲する。

7月1日に本格的な総攻撃を加え出すと、3日に完全に制圧。一部逃亡する者はあったものの、城内にいた者を全て撫で斬りにして討ち果たした。その様子は“城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほど”と表されている。そして翌日に近くの寺池城が落城すると、残った一揆勢は伊達軍の厳しい仕打ちを怖れて降伏し、一揆は終息したのである。

佐沼城にほど近い場所に、首壇と呼ばれる塚がある。佐沼城攻略の際に殲滅させた一揆勢の首を埋めた場所とされている。侍が500名、百姓などが2000名、合わせてその数は2500にも及ぶという。現在塚の上にある碑は大正2年(1913年)に町の有志らによって建てられたものである、今でも落城した時期に合わせて供養がおこなわれている。

<用語解説>
◆葛西氏・大崎氏
葛西氏は鎌倉時代以降に土着、大崎氏は室町時代に奥州探題となった、どちらもこの地方の名族である。しかし戦国時代には勢力を失い、独立しながら伊達氏に従属する形で命脈を保っていた。豊臣秀吉の命に従わず、小田原参陣をしなかったためいずれも改易となるが、伊達氏との関係が影響を及ぼしているとも考えられる。なお、大崎氏は秀吉への直訴により旧領の一部を与えられる予定であったが、一揆のために反故にされた。

◆木村義清
?-1598。荒木村重・明智光秀に仕えていたが、後に豊臣秀吉に仕える。奥州仕置の際の功績により、30万石の大名となる。しかし強引な検地や刀狩で葛西・大崎の旧臣(その多くは半農として土着)の怒りを買い、葛西大崎一揆の原因を作る。一揆後改易となり、蒲生氏郷の客将となる。蒲生氏が会津から転封となると、新たに大名に取り立てられるが、当年に死去。

◆木村清久
?-1615。奥州仕置後、父と行動を共にする。父の死後は遺領を継ぐが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易。大坂の陣で豊臣方につき、夏の陣で討死。

◆蒲生氏郷
1556-1595。近江国出身であるが、奥州仕置後に会津へ移封となる。これは伊達政宗に対する牽制のために秀吉が取った策とされ、葛西大崎一揆の際にも最初から伊達政宗に対して疑惑の目を向けていたようである。

◆伊達政宗
1567-1631。戦国時代の奥州の覇者であるが、既に豊臣秀吉が国土の大半を支配しており、小田原へ参陣することで形式的に臣従を誓う。しかし奥州仕置で減封されるなど不満を持っていた。葛西大崎一揆においても影で煽動することで、奥州の混乱に乗じて領土拡大を狙っていたとされる。密書が秀吉の手元に渡り窮地を招くが、釈明で事なきを得る(ただし釈明直後に領地替えを命ぜられ、実質的減封を余儀なくされる)。最終的に一揆勢を殲滅させるが、これも密約などの口封じのためと言われる。

アクセス:宮城県登米市迫町北方

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