【よこくらぐう】
第81代安徳天皇の陵墓は、現在、その最期となった壇ノ浦を見下ろす赤間神宮に隣接する阿弥陀寺陵としている。しかし未だなお宮内庁指定の陵墓参考地が全国に5ヶ所ある。そのうちの1つとして四国に唯一あるのが横倉山の頂上付近にある「鞠ヶ奈呂陵墓」である。勿論、この地には参考地とみなされるべき、安徳天皇にまつわる伝説が残されている。
この地に残る伝説によると、安徳天皇を奉じた平家の落人がこの地に足を踏み入れることとなるのは、壇ノ浦の戦いに敗れた後ではなく、その1ヶ月前にあった屋島の戦いの直後からであった。壇ノ浦へは替え玉が送られ、平知盛や田口成良といった有力武将が随伴して四国の各地を転々とし、そして文治3年(1187年)にこの横倉山にたどり着いたとされる。安徳天皇は山頂近くの一角に造られた行宮地で過ごし、平知盛以下88名の将はこの山中に居を構え、その数は25軒ばかりであったという。そして正治2年(1200年)に安徳天皇は23歳で崩御、かつて臣下の者と共に鞠を興じた土地に御陵が設けられた。さらに平知盛らは安徳天皇を玉室大明神として祀る宮を山頂付近に建てた。それが現在に残る横倉宮である。
また随伴した88名の将を祀る祠や墓が山中やその周辺に点在していたが、それらを一つにまとめて祀った平家之宮が登山道の途中にある。その近くには行在所跡や、おそらく重要な水源であっただろう安徳水などがある。他の陵墓参考地と比べても、山中の不便な場所といえども、その規模は傑出しており、この山における山岳信仰の発展と共に神聖なものとして残され崇敬されてきたことが分かる。
<用語解説>
◆安徳天皇陵墓参考地
この横倉山以外の4ヶ所は次の通り
・山口県下関市豊田町にある「王居止御陵」(壇ノ浦で入水した遺体を運ぶ途中で埋葬した地とされる)
・鳥取県鳥取市国府町にある「岡益の石堂」(壇ノ浦から脱出した二位の尼らと共に因幡へ逃れ10歳で崩御。最初に潜伏した寺院に密かに葬られた)
・長崎県対馬市厳原町にある陵墓参考地(壇ノ浦から脱出し、筑前国で少弐氏の庇護を受けて潜伏。当地でもうけた子が宗氏を名乗り対馬を支配すると、迎え入れられ74歳にて崩御)
・熊本県宇土市立岡町にある「晩免古墳」(肥後国清和村にて17歳で崩御。源氏の追及を逃れるため既にあった古墳に改葬された。石棺には菊の紋様が残されている)
◆平知盛
1152-1185。平清盛の四男。清盛死後に一門を率いた宗盛の実弟。壇ノ浦の戦いに臨み、一門の主立った者が入水するのを見届けると、身体に碇を巻き付けて入水した。
◆田口成良
生没年不明。早くより平清盛に仕え、讃岐・阿波を中心に四国最大の勢力を持っており、平家の本拠となった屋島も造営した。壇ノ浦の戦いの時に突然平家を裏切った。その後裏切りを不忠として斬首されたとも伝わるが、その後は不明。
アクセス:高知県高岡郡越知町五味