【ふくげんじ】
大阪城代・青山宗俊の家臣であった石井宇右衛門は、面倒を見ていた赤堀源五右衛門に逆恨みされ殺害される。ただちに18になる長男の三之丞と次男の彦七が免状を受け取って、仇討ちの旅に出た。延宝元年(1673年)11月のことである。
その年の内に、兄弟は赤堀の養父を大津で討ち取ったが、それ以降は杳として行方も知れず、手掛かりも掴めない状況となった。数年が空しく過ぎ、やむなく兄弟は別れて仇の探索を続けることとし、三之丞は叔父に当たる犬飼瀬兵衛が住む養老の室原に逗留し、方々の心当たりを探した。さらには相手を挑発しようと、仇の名を挙げて、自分の逗留する叔父宅まで喧伝したのである。
この三之丞の噂はやがて赤堀本人の知るところとなった。腕に覚えのある赤堀はならばと、養老の住まいへと足を運んだ。
三之丞にとって最大の不運は、仇の赤堀源五右衛門が訪れたちょうどその時に、庭で行水をしていたことであった。赤堀は三之丞であると見ると、庭に乱入し有無を言わさずその首に深々と斬りつけたのである。不意を突かれた三之丞は何の抵抗すら出来ないまま、返り討ちに遭ってしまったのである。仇討ちの旅に出て8年が過ぎた天和元年(1681年)1月のことであった。
あまりにも呆気なく返り討ちに遭った三之丞は、叔父宅のある室原の福源寺に葬られた。だがここから奇怪な話が始まる。
福源寺の墓地のはずれに柿の木があった。そのうちの1本の幹から“髪の毛”が生えてきたのである。これを見た多くの人々は、為すすべもなく無惨な死を遂げた石井三之丞の亡魂が、再び生まれ変わって仇を討ちたいとの一念で柿の木に髪の毛を生えさせたに違いないと言うようになったのである。この噂は評判となり、後に大垣藩の殿様も見物にきたという。
“髪の毛の生える柿の木”は今でも現存している。戦後も髪の毛が生えていたとされるが、近頃は環境が変わったせいなのか、そのような怪異は見られないとも言われている(残念ながら探訪した際にも確認出来なかった)。ただ伝承だけは残され、石井三之丞の墓碑と柿の木には、字はかすれていたが案内板が建てられていた。
<用語解説>
◆仇討ちのその後
長男の三之丞が返り討ちに遭うのと前後して、別れて仇を探していた次男の彦七は四国に赴く途中で船が遭難して溺死している。二人の死後、まだ幼かった三男の源蔵と四男の半蔵が成長して仇討ちを引き継ぐ。そして仇の赤堀源五右衛門が後日亀山藩に仕えていることを知ると、藩総出の警戒網をかいくぐって、ついに亀山城下で仇討ちに成功する。時に元禄14年(1701年)5月、父の死から数えて29年目のことであった。
この仇討ちは評判となり、“元禄曾我”と呼ばれた。後に四世鶴屋南北はこの仇討ちを下敷きにして「霊験亀山鉾」を書いている。
◆髪の毛の正体
奇怪な髪の毛とされてきたが、実際にはウマノケタケ(ヤマウバノカミノケ)という名のキノコ類の菌糸束であることが判明している。
アクセス:岐阜県養老郡養老町室原