【ふくぞうじ/こまんもたれまつ】
東海道五十三次の47番目の宿場である関宿は、今も宿場町の古い町並みが残る。その旧街道に面した場所にあるのが福蔵寺である。創建は天正11年(1583年)、織田信長の三男・信孝の菩提寺として知られる。その境内にあるのが、関宿の伝承として広く知られる“関の小万”の墓碑である。
久留米藩の剣術指南役・巻藤左衛門は、口論から同僚の小野元就に騙し討ちで殺害される。逐電した小野は名を小林軍太夫と変えて亀山藩に仕官したとの話を聞き、身重であった巻藤の妻は仇討ちを志願して上方へ赴き、さらに鈴鹿の関を越えた関宿へたどり着いた時に産気付き一人の女児を産む。しかし産後の肥立ちが悪く、止宿していた旅籠の山田屋主人夫婦に自らの仇討ちの件を伝え、女児を託して亡くなったのである。
山田屋の吉右衛門夫婦は、残された女子を“小万”と名付けて我が子同様育てた。そして15才の折、夫婦は実の両親の一件を小万に伝え、小万は父の仇討ちを決意した。吉右衛門は亀山藩家老の加毛寛斎に子細を告げて助力を頼み、小万は亀山藩の剣術指南役の榊原権八郎の道場で剣術を学ぶことになる。
新陰流の使い手である榊原は小万に“突き”のみを伝授し、ひたすらそれを会得するため、毎日関宿から亀山城下までを歩いて通った。関宿では美貌の娘が城下まで剣術を習い行くのを興味津々で見る若い男がからかい半分で言い寄ってきた。小万はそれを避けるため、関宿の東はずれにある松の木の隠れて時を過ごしたとされる。今も旧街道に面した場所に、その松の木があった場所が残され“小万もたれ松”と呼ばれている。
3年の修行を経た天明3年(1783年)8月、馬子に変装した小万は、亀山城大手門前で小林軍太夫が下城するのを待ち構え、見事“突き”で父親の仇を討った。この快挙は亀山城下や関宿は勿論、各地でも大いに喧伝された。しかし小万は久留米藩に帰参せず、今まで通り山田屋で働き続けた。山田屋はこの美貌の女剣士見たさに大層な人気となって、賑わったという。そして小万は享和3年(1803年)に38才で亡くなり、福蔵寺に葬られた。
その後も山田屋は関宿で商いを続け、現在は“会津屋”の屋号で昔のままの場所で店を構えている。
<用語解説>
◆織田信孝
1558-1583。織田信長の三男。本能寺の変後、次男の信雄と後継者争いを起こすが、敗れて自害を強制される。福蔵寺は父信長の菩提を弔うために、信孝が生前に建立を命じていた寺だが、結局自らの菩提寺となる。なお自害後に首級が持ち出され、福蔵寺に葬られたとされるが、首塚は現存しない。
◆もう一人の“関の小万”
“関の小万”という女性がもう一人この地にいたとされる。関宿の出女(宿の客引きで遊女でもある)で、江戸初期の俗謡にその名が登場する(上記関の小万の仇討ちに関連する歌としてしばしば引用される「鈴鹿馬子唄」に登場する“関の小万”もこちらの小万を指していると思われる)。また丹波与作の恋人として、近松門左衛門の人形浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」にも登場する。また長唄「関の小万」という花笠踊りもある。
◆もう一つの“関の小万”の仇討ち
豊橋市にある賢養院には“関の小万”の墓があり、以下のような仇討ちの話が残されている。
自分の素性を知り亀山城下へ剣術の稽古に行っていた小万を、大岡村庄屋の息子の与五郎が懸想して襲った。刀を抜いて応戦した小万は誤って与五郎を死なせた。罪を減ぜられるが、関宿を立ち去り、両親の故郷である九州(この伝承では細川藩)へ行って実の姉と会い、共に仇討ちに出る。
しかし途中で姉は病死。そして吉田宿(現・豊橋)で小間物商の山田市郎右衛門と出会い、一緒に駿府へと向かう。その途中、浜松で仇(この伝承では矢野権太夫)と遭遇し、市郎右衛門の助太刀もあって無事本懐を遂げた。
既に29歳になっていた小万は、市郎右衛門の求めに応じて妻となり、自ら化粧紅を調合して評判になった。そして65歳の時にこの地で亡くなったとされる。
ただ豊橋の伝承によると、小万が亡くなったのは貞享元年(1684年)のこととされ、むしろもう一人の“関の小万”が生きていた頃に近い(一説では、豊橋の小万は丹後与作の恋人で、京にいたところ山田市郎右衛門と共に吉田へ行き、そこで紅を売ったともされる)。
アクセス:三重県亀山市関町中町/関町小野