【じょうこうぐう/はくさんどう】
第98代長慶天皇は南朝の第3代天皇とされるが、その史料の乏しさから長らく天皇としての在位について疑問が持たれていた。正式に98代目の天皇として認められたのは大正15年(1926年)10月のことであり、その在位は正平23年(1368年)の後村上天皇崩御から、弘和3年(1383年)頃とされる(弘和3年に綸旨が、翌年には院宣が出されたとの史料が残っているため)。ただその詳しい事績は南朝衰退期と重なっているために明確に記録されておらず、特に上皇となった後については崩御されたのが応永元年(1394年)との史料が残されるだけで、実際のところは不明なことばかりと言える。
ただ、長慶天皇はその在位期間に北朝との和議が全く進まなかったことから(先代後村上天皇の時には交渉はあったとされ、次代後亀山天皇の時には南北朝が統一されている)、南朝存続の強硬派であったと推測されている。そのため上皇となってからは北朝打倒のため全国各地に潜幸されたという伝説が生まれ、その地で崩御されたという伝説地は100近くあるとも言われいる。その中でも「御陵参考地」として挙げられた場所が、弘前市(旧・相馬村)の紙漉沢にある。
紙漉沢の陵墓は小高い丘の上にあり、その丘の麓あたりに上皇宮と呼ばれる神社がある。言うまでもなく、主祭神は長慶天皇である。
この地には次のような伝説が残されている。北朝打倒のために陸奥国浪岡に身を寄せた上皇一行であったが、元中2年(1385年)に南部信政によって襲われ、上皇も傷を負ったために、家臣の新田宗興(新田氏の一族とも類推出来るが、史実には登場しない)が守っていた紙漉沢の地に移り住んだとされる。そして最終的に応永10年(1403年)にこの地で崩御されたというのである。
上皇宮の近くには、白山堂という祠があり、ここが長慶天皇の后であった菊理姫(菊子姫・菊代姫とも)の墳墓であるとされる。案内板によると、菊理姫は新田宗興の養女であり、伊勢国で宗興が討死して以来(上皇宮での説明と矛盾するが)上皇と行動を共にしてこの地に至り、ここで盛徳親王(長慶天皇陵を造営し、上皇宮の前身を創建したとされるが、それ以外の事績および生没年は不明)をもうけたとされる。そして応永23年(1416年)に亡くなるまでこの地で紙漉きの技術を教えたとされ、そのため“紙漉沢”という地名となったという伝説も残される。
<用語解説>
◆長慶天皇の陵墓
長慶天皇陵として現在認定されているのは、京都市右京区の天龍寺塔頭の1つであった慶寿院跡に設けられた嵯峨東陵である。これは、南北朝統一後に南朝の皇族が京都へ戻っていること、慶寿院が長慶天皇の皇子である海門承朝が住んでいた場所であることから推断されたものであり、決定的な根拠はない。むしろ昭和19年(1944年)に決定が下されるまで、この地以外に2箇所が“陵墓参考地”とされており、有力な陵墓地とみなされていた。それが和歌山県九度山町にある旧河根陵墓参考地と、紙漉沢にある旧相馬陵墓参考地である。ただいずれも嵯峨東陵確定後に陵墓参考地から除外されている。
アクセス:青森県弘前市紙漉沢