サイトアイコン 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑

宇治川先陣之碑

【うじがわせんじんのひ】

宇治橋の東側、宇治川の中州となっている橘島に“宇治川先陣之碑”がある。昭和6年(1931年)に建てられたものであるが、実際には現在の宇治橋よりもさらに下流であった出来事であるとされている。

寿永3年(1184年)1月に起こった宇治川の戦いは、木曽義仲と源頼朝という源氏同士の戦いであった。この戦いの約半年前の7月に大挙して上洛した木曽義仲であるが、後白河法皇との不和などから信望を失い、この時点で付き従う者は1000騎余りとなっていた。一方、源頼朝は法皇の命を受けて、木曽軍追討のために範頼・義経の2人の弟に数万の大軍を預けて京へ上っていた。結局、宇治川の合戦は木曽側400に対して義経率いる25000の兵という、圧倒的な兵力差となったのである。

この合戦の白眉は、義経側の先陣争いであった。流れが急な宇治川を競って渡ったのは、池月に乗った佐々木高綱と磨墨に乗った梶原景季の両名である。池月・磨墨とも頼朝秘蔵の名馬であったが、先に池月を所望した景季に対して頼朝は代わりに磨墨を与え、後から所望した高綱に池月を与えた。さらに上洛の途上、高綱が池月に騎乗しているのを見た景季は憤激するが、高綱の「盗んできた」との嘘の言い訳を受け入れていた。両者とも先陣の功名を得ようと必死になるだけの理由があった。

先に進み出たのは景季である。負けじと高綱が追いすがる。ここで高綱「馬の腹帯が緩んでおるぞ」と景季に声を掛けた。慌てて腹帯を確かめる景季を尻目に、高綱の乗る池月は宇治川に入っていく。そして池月は急流をものともせず、高綱も川底に仕掛けられた大綱を太刀で切り裂き、とうとう川を渡りきって先陣の名乗りを上げたのである。

<用語解説>
◆木曽義仲
1154-1184。源義賢の次男。頼朝は従兄に当たる。木曽で挙兵し、頼朝の勢力を避けるように北陸路から京都に入り、平家を追い落とす。しかし皇位継承への介入や、市中での乱暴狼藉より、平家に代わって新たな憎悪の対象となる。瀬田と宇治で源範頼と義経と戦うが、多勢に無勢のために惨敗。翌日、近江粟津の戦いで敗死する。

◆佐々木高綱
1160-1214。近江源氏・佐々木秀義の四男。宇治川の合戦の先陣争いで有名。平家滅亡後は守護に任ぜられるが、後に出家する。

◆梶原景季
1162-1200。父は頼朝時代の権臣・梶原景時。宇治川の合戦後も、平家との戦いで奮戦する。しかし頼朝の没後、父の景時が失脚し、梶原一族は駿河で滅亡するが、景季もその時に運命を共にして自害する。

◆池月(生食)・磨墨
共に源平の合戦時代の名馬として有名。出身については諸説あり、全国各地に誕生の地が存在する(それぞれが違う土地で生まれたとも、あるいは同じ地で生まれ育ったとも諸説ある)。

◆もう一人の“先陣”
『平家物語』にはもう一人、先陣の名乗りを上げた武士が登場する。馬を射られて遅れを取った畠山重忠が泳いで向こう岸にたどり着こうとした時、腰にしがみつく者がある。名を尋ねると、これも馬を川に流されてしまった大串重親である。烏帽子親だった重忠はやむなく怪力で重親を投げ飛ばして上陸させた。すると重親は「我こそは徒立ち(騎馬ではなく徒歩)の先陣」と名乗ったため、敵味方問わず大笑されたとされる。

アクセス:京都府宇治市宇治塔川 宇治公園内

モバイルバージョンを終了