【たいねいじ おおうちよしたかのはか】
大寧寺は応永17年(1410年)に創建された、長門国屈指の古刹である。天文20年(1551年)にこの地で起きた“大寧寺の変”は、戦国時代の下剋上を象徴する事件として有名である。
西国随一と言われた大内義隆は、中国地方ばかりではなく、天文年間の初めには九州にも版図を拡大する勢いであった。しかし天文11年(1542年)に、山陰に勢力を持つ尼子氏に大敗してから、軍事はおろか内政までも顧みることなく遊興に明け暮れていた。やがて筆頭家老で武断派の陶隆房(後の晴賢)と義隆の近臣である文治派の相良武任が衝突。隆房は義隆の言動に対して不信を極め、謀反を企てるようになった。しばらくして謀反の噂は公然のものとなったが、義隆はそれを特に気にするようなこともなく、均衡状態が続いた。
天文20年8月末、陶隆房は兵を挙げて、居城のある山口へ向かい、大内家の多くの武将は隆房の行動に同調した。対して義隆は、陶軍の山口到着の前日まで酒宴を開くなどして、全く無防備の状態。主立った家臣で味方となったのは冷泉隆豊のみで、わずか1日で山口を追われた。さらに船で逃れようとするが嵐のために叶わず、深川にある大寧寺に逃げ込んだのである。
大寧寺に残る逸話では、寺に着いた義隆は顔を洗おうと兜を脱いで池のほとりに立ったが、自分の姿が池に映っていないことに気付くと同時に死を覚悟したとされる。そして義隆は隆豊と共に大寧寺住職より戒名を授かり、翌日、境内で自害して果てた。義隆を介錯した隆豊も、経蔵に立て籠もると割腹し、その腸を投げつけて最期を遂げたという。
大寧寺本堂裏山の頂上付近に、大内義隆の墓と最後まで付き従った家臣の墓、さらにはこの謀反の際に山口に滞在して命を落とした三条公頼の墓がある。大寧寺はこの乱によって焼失するが、後にこの地を支配した毛利氏によって再興され、長州藩時代も引き続き崇敬を受けている。
<用語解説>
◆大内氏
百済の聖明王の三男・琳聖太子を祖とする。はじめは多々良氏と称し、周防介として周防国を実効支配し、御家人となる。南北朝時代に、室町幕府に味方する代わりに周防・長門2カ国の守護職を得る。それ以降有力守護大名として栄える。
◆大内義隆
1507-1551。周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前の守護。大寧寺の変の印象のため文弱とされるが、治世の前半は戦国大名として大内氏の最大版図を得るなどの力量があった。文化保護にも篤く、居城の山口には京都から下ってきた公家が多く滞在して、文化が発達した。また渡来してきたザビエルとも謁見し、布教を認めている。
◆陶晴賢
1521-1555。大内氏の重臣。大寧寺の変で大内義隆を自害に追い込み、実質的に遺領を支配する。しかし大内家臣団をまとめきれず、さらに台頭してきた毛利元就の謀略により厳島の戦いで敗死する。
◆大内氏のその後
義隆の嫡男・義尊は義隆自害の翌日に捕らえられて殺害される(享年7歳)。次男・亀鶴丸(義教)は母方の実家が陶方であったために助命される。そして大内家の当主は、大友宗麟の弟で、義隆の猶子となっていた義長が、陶晴賢に担ぎ出されて収まった。しかし厳島の戦いで晴賢が敗死すると、後ろ盾を失って毛利元就に攻められて自害する。ここに大内氏は滅亡する。
大内義長が自害した直後に義隆の次男の義教が大内家臣に担ぎ出されて抵抗するが、処刑。さらにその2年後、大友氏に寄食していた大内一族の大内輝弘が、大友宗麟の策によって周防国内で挙兵するが、こちらも鎮圧された。最終的に、大内領の周防と長門は毛利氏のものとなった。
アクセス:山口県長門市深川湯本