【あまづか】
あま塚は、鳴門の海岸近くの路地裏にひっそりとある。案内板はあるが、自動車で進入するのをためらうような場所にある。
案内板によると、このあま塚と呼ばれるお堂には、清少納言の墓が安置されている。地元の言い伝えでは、清少納言はこの地で亡くなったという。しかもその最期は非常に悲惨なものであり、地元の漁師に辱めを受けた末に、海に身を投げて死んだとされている。
しかしながら、このあま塚には別の伝説が残されている。『日本書紀』の允恭天皇の巻に登場する、海士の男狭磯(おさし)の墓であるという説、また遠流となった土御門上皇の火葬塚(天塚)であるという説もある。いずれも“あま”という名前から連想される伝承と言うべきであろう。
<用語解説>
◆清少納言
966?-1025?。父は清原元輔。中宮定子の女房として宮中に仕え、才媛として知られる。中宮の死後は宮中を去り、その後の行動についてはほとんど資料がない。鎌倉期には「才のある女性は不幸」という考えのやり玉に挙がり、悲惨な末路を遂げたという伝承が残される。
◆男狭磯の伝説
允恭天皇が淡路で狩りをした時、明石の海底にある真珠を差し出すように神託があった。全国から海士が集められ、その中にあった男狭磯が見事に海底の大鮑を引き上げた。しかし男狭磯はその際に死んでしまい、さらなる神託によって天皇の命で墓が築かれたという。
◆土御門上皇
1196-1231。第83代天皇。後鳥羽天皇の長子として3才で即位。その後15才の時に、弟の順徳天皇に譲位。承久の乱で後鳥羽・順徳上皇が遠流と決まると、関与していないにもかかわらず自ら申し出て土佐に流される。その後阿波に移され、その地で崩御。実際の火葬地とされているのは、同じ鳴門市内の阿波神社境内である。
アクセス:徳島県鳴門市里浦町