【ひたじんじゃ】
現在の日田市一帯を戦国時代まで治めていたのが大蔵氏である。その祖先は、天武天皇の曾孫で豊後介に任ぜられた中井王、あるいは帰化人の東漢氏が出自であるとか言われているが、定かではない。初代の大蔵永弘が日田郡司を称して土着したとされるが、歴史的に実在が確認されているのは11世紀後半に登場した大蔵永季からである。
永季は別名“鬼蔵大夫”を名乗り、怪力無双で名高かった。その名が記されているのも、後三条天皇の御代である延久3年(1071年)おこなわれた相撲節会に参加したとの内容である。その後10回も節会に参加し一度も負けを喫することがなかったとされる。
この鬼蔵大夫の相撲節会出場にまつわる伝説がある。初めての節会に呼ばれたのが16歳の時。都に出る前に、信心している天神社へ参拝に向かった。途中の川べりで若い娘が大根を洗っているのを見て後ろから抱きついたが、逆に娘の怪力で身動きが取れなくなってしまう。実は娘の正体は天神で、相撲の対戦相手が“出雲の小冠者”という全身鉄の皮膚を持った強敵であり、心して掛かるよう託宣したのである。
そこからうつつを抜かさず精進した鬼蔵大夫であるが、神のお告げ通り、対戦相手は出雲の小冠者であり、その硬い身体に打ち負かされそうになる。しかし、小冠者の母は毎日鉄を食らって胎内の子を頑丈に育てたが、一度だけ誤って瓜を口にしたため、一箇所だけが生身の部分がある。思いだした鬼蔵大夫が気を取り戻してあたりを見回すと、川べりにいた娘の姿が見えた。そして娘は右手でしきりに額を触っている。その意を悟ると、鬼蔵大夫は小冠者の額を思いきり打ちつけ、一撃で倒したのである。(現在、鬼蔵大夫が娘と出会った場所には“鬼松天神”の社がある)
その大蔵永季を祀っているのが、日田神社である。地元民からは、永季の通称である「日田殿(ひたどん)」で呼ばれている。上記の相撲節会での活躍故に、相撲の神として篤く崇敬されている。現在も日本相撲協会が日田に巡業に来ると必ず公式に参拝をおこなっている。
<用語解説>
◆大蔵永季
1056-1104。京都でおこなわれた相撲節会に出たことが記録に残っており、その実在が明確になっている。その最期も京都からの帰りに病を得て、領内に戻ってきたところで亡くなったとされている。
◆相撲節会
奈良時代には既に始められていたと考えられるが、節会として整備されて本格化するのは平安時代に入ってからになる。全国で人選がおこなわれ、20組40名が出場する。12世紀になってから何度か中断を経て、承安4年(1174年)を最後におこなわれなくなった。
アクセス:大分県日田市城町二丁目