【いっこうじ おぐりすけしげくようひ】
説経節で有名な『小栗判官』であるが、実は完全な創作ではなく、実在の人物がモデルとなっている。それが常陸国に所領を持っていた小栗助重である。
小栗氏は、平将門に繋がる大掾氏の支族として源平の合戦にも名を残している。そして時代が下って室町時代になると、鎌倉公方の支配地である関東に所領を持ちながら、京都の幕府と直接主従関係を結ぶ“京都御扶持衆”となる。そのためか助重の父・満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で鎌倉公方に反旗を翻すが、結局は敗北。この時に所領の大半を取り上げられたために応永29年(1422年)に再び戦火を交えるが、今度は鎌倉公方・足利持氏に直接攻められ、最終的に満重は自刃する。これによって一時期小栗氏は所領を失うことになり、息子の助重は流浪の身となったとされる(一説では、満重は自刃せずに常陸を脱出し、相模に逃れて『小栗判官』のモデルとなるとも)。
ところが、永享の乱で足利持氏が自害、さらにその遺児を擁立して起こった結城合戦が永享12年(1440年)に始まる。この時に武功を立てた小栗助重が再び旧領を取り戻すことになる。父の死からおよそ20年ぶりの復帰であった。
こうして京都側と鎌倉側の権力争いが続くが、その中で小栗氏はさらに翻弄される。享徳3年(1455年)に始まった享徳の乱で反鎌倉公方であった助重の居城・小栗城は足利成氏によって攻め落とされてしまう。これによって小栗氏は再び所領を失い、京都御扶持衆の有力武将の中でいち早く歴史の表舞台から消えてしまったのである。
かつて小栗氏が知行していた筑西市小栗の地にある一向寺には、小栗助重の墓とされる供養碑がある。だがそは後世に建立されたものであり、その後の助重は『小栗判官』の物語に匹敵するとも言うべき人生を歩む。所領を失った助重は出家すると、京都の相国寺の門を叩く。そしてそこで画僧・周文の水墨画を学び、やがて足利将軍家の御用絵師にまで上り詰めるのである。大徳寺にある重要文化財「芦雁図」を描き、門下に狩野派の祖・狩野正信を持つ、小栗宗湛その人である。
<用語解説>
◆京都御扶持衆
鎌倉公方が支配する関東・東北に所領を持ちながら、京都の幕府と直接の主従関係を結んだ豪族。鎌倉公方の支配を受けないために、公方に対して常に反抗的である。その態度は、鎌倉側と対立を深める京都側の意向を汲んでの反抗であると考えられている。甲斐の武田、常陸の大掾・小栗・真壁、下野の宇都宮・那須、陸奥の伊達・南部・蘆名などがこれにあたる。
◆周文
生没年不詳。相国寺の僧であり、画僧として足利義政に仕える。日本の水墨画の発展に大きく寄与し、その作品とされるものは中国の様式とは違った独自の画風となっている。その死後、幕府の御用絵師の地位は小栗宗湛に受け継がれたとされる。また門弟には雪舟をはじめとして、優秀な水墨画家を輩出している。
アクセス:茨城県筑西市小栗