【かえるいし】
現在、奈良の元興寺に安置されているかえる石であるが、この石は、江戸時代に奇石にまつわる話を集めた『雲根志』に“大阪城の蛙石”として載せられるほど有名な石である。その形状が蛙に似ているということで名付けられたことは疑いないところであるが、その数奇な歴史は、名前に似合わず非常に恐ろしいものである。
元々この石は、河内の川べりにあった殺生石であったと言われている。それを豊臣秀吉がたいそう愛でて、大阪城に運び込んだところから因縁が生じる。大阪城落城の際に、亡くなった淀君の遺骸をこの蛙石の下に埋めたとされ、そのために淀君の怨念がこの石に籠もったと言われる。
その後時を経てこの石はいつの間にか大阪城の乾櫓の堀をはさんだ対岸に置かれる。ここからさらに陰惨な言い伝えが広まっていく。この石のあるところから大阪城の堀に身を投げる者が後を絶たない。あるいはこの石の上に履き物を置いて身を投げる者が多く出る。さらには大阪城の堀に身を投げて死んだ者は必ずこの石のそばに流れ着くとも言われるようになる。要するに、大阪城の堀で死ぬ者は必ずこの蛙石に絡んでいくことになり、まさに死の象徴と言うべき都市伝説に発展した、実に不吉な石となったのである。
そのような石がなぜ奈良の元興寺に安置されたのかは詳細はつまびらかではないが、第二次世界大戦の折の混乱で行方不明となったものが、昭和31年(1956年)に元興寺に引き取られたことが記録に残っている。名の通った寺院の境内に置かれるとあって、当然過去の悪因縁やそれにまつわる諸霊の供養をおこなっているとのこと(現在でも毎年7月7日に供養が執り行われている)。それ以降は、災いをもたらす石のイメージのを払拭がなされ、“福かえる”や“無事かえる”の語呂合わせで、元興寺の縁起物として位置付けられている。
<用語解説>
◆元興寺
蘇我馬子が創建した最古の寺院である法興寺(飛鳥寺)が前身。南都七大寺として栄えるが、中世以降に衰退。現在は元興寺の一僧坊であった極楽坊本堂が世界遺産に登録されている(極楽坊の屋根瓦の一部は飛鳥時代のものである)。「元興寺の鬼(ガゴゼ)」の伝説も残されている。
◆『雲根志』
木内石亭(1725-1808)が採取した奇石標本(石器・化石も含む)を分類・考察した書物。1773年から1801年に掛けて大阪で出版された。石亭は弄石家として国内の鉱物学・考古学の先駆的役割を果たした石の大家。
◆淀君
1569-1615。浅井長政の長女、豊臣秀吉の側室。嗣子・秀頼を生み、大阪城に留まる。江戸に幕府を開いた徳川家康と対立し、大阪冬の陣・夏の陣を戦う。最期は大阪城内にて自害とされるが、遺体は発見されていないため、生存説も残る。
アクセス:奈良県奈良市中院町