【かわずづか】
井手の名前は、「川の水をせき止めたところ」という意味を持つ“井堤”からきていると言われる。実際、この地は玉川という清流が東西を貫き、湧水地もある。さらに言えば、この地はかつて政治の中枢に最も近い場所でもあった。聖武天皇の時代に政治の実権を握った橘諸兄の本拠地がこの井手の地にあり、聖武天皇も井手にあった諸兄の別邸に行幸したり、また井手に近い恭仁京に遷都をおこなっている。
平安時代になると、井手は歌枕の地として有名になる。橘諸兄が邸宅に植えたことから始まる“山吹の花”、美しい清流である“玉川”、そしてその清流に棲息する“蛙”の名所として知られるようになったのである。この“蛙”については、鴨長明の『無名抄』に次のような内容の一節がある。
蛙のことを“かわず”と呼んでいるが、実は“かわず”と呼べる蛙は“井手の蛙”だけである。その色は黒っぽく、さほど大きくもなく、他の蛙のように飛び跳ねることもあまりない。水のあるところにだけ棲み、夜更けになると鳴き始めるが、その声は「心澄み、ものあわれな」気持ちにさせてくれる。
“玉ノ井泉”と呼ばれていた湧水地には、蛙塚として昭和3年に建てられた石碑があり、周囲はちょっとした公園風の休憩所となっている。この石碑には紀貫之の句が刻まれている。
音にきく 井堤の山吹 みつれども 蛙の聲は かわらざりけり
この地が蛙塚と言われるようになったのは、かつて橘諸兄がこの場所に3本足のカジカを埋めたという伝説が残っているためであるとされる。
<用語解説>
◆橘諸兄
684-757。初名は葛城王。臣籍降下して、母(橘三千代)の氏である橘姓を名乗る。天然痘の流行で多くの公卿が病死したため、一気に朝廷の中枢として聖武天皇を支える。井手の地を本拠としたため“井手左大臣”と呼ばれ、唐から帰国した吉備真備らを重用した。聖武天皇退位後は政治的発言力を弱め、半ば強制的に引退を余儀なくされる。
◆『無名抄』
鴨長明(1155-1216)の著した歌論書。著者の晩年に成立したものとされる。
アクセス:京都府綴喜郡井手町井手