【いわじんじゃ/しょうざんじ】
水田が広がる中に、整えられた杉木立に守られるようにしてあるのが磐神社である。遠くからでも赤い屋根の拝殿が目立つが、これが出来たのが明治30年(1897年)頃のことであり、それまでは御神体のみが祀られていた。その御神体は、東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mという巨大な岩であり、拝殿の裏手に今なお鎮座している。
この御神体の巨石はいわゆる“陽石”であり、この神社も別名を“男石大明神”とも称される。そしてこの陽石に対する陰石があるのが、この神社から北西に1km弱ほど離れた場所にある松山寺である。この寺の境内にある“女石神社”の御神体が対となっているとされる。こちらの石は周が約5m、高さも2mと、磐神社の男石と比べると小ぶりである。磐神社の説明によると、この一対の陰陽石で二柱の神(日本武尊と稲葉姫命)を祀るが、男石大明神が本社となるという。
この磐神社から南西へ約500m離れた場所には、かつて奥州阿倍氏の居館があった。この安倍氏が崇敬していたのがこの神社という。さらに安倍氏が信仰していた神が“アラハバキ神”であり、かつてこの神社はこの神を守護神としていたとされる。また延喜式内社としても記載されており、古来より信仰されてきた場所であることは間違いないだろう。
このアラハバキ神は蝦夷土着の神と認識されているが、その正体は不明な点が多い。さまざまな性格を持つ神と解釈されているが、その中に“塞の神”とみなす説がある。つまり境界を守る神=道祖神ということになるが、その一形態として“陰陽石”が挙げられる。かつてアラハバキ神を祀ったとされる磐神社の御神体が陽石となっているのは、果たして偶然の産物なのか、あるいは意図的なものであるのかは謎である。ただ一説では、松山寺の女石と合わせて陰陽石とみなしたのは、安倍氏がこの地にあった時代よりもはるかに後の話であるとも言われている。
<用語解説>
◆奥州安倍氏
蝦夷の俘囚長とされる一族。その出自は定かではなく、神武東征で討たれた長髄彦の兄・安日彦を祖とする説や、都より下向した阿倍氏の末裔あるいはその名を賦与された一族とする説などがある。安倍頼時の代に陸奥国奥六郡(現在の岩手県奥州市から盛岡市周辺)を支配していたと記録される。その後、頼時の代に始まった前九年の役(1051-1062)で、頼時が死去、嫡男の貞任が源頼義に討たれたため、安倍氏は滅亡する。しかし後三年の役で奥州の覇権を握った藤原清衡の母が安倍貞任の妹であったため、阿倍氏の血統は続くこととなった。
◆アラハバキ神
詳細については日本伝承大鑑の「荒脛巾神社」を参照のこと。
アクセス:岩手県奥州市衣川区石神(磐神社)
岩手県奥州市衣川区女石(松山寺)