【おうしこじんじゃ・いしのほうでん】
“日本三奇”の1つに数えられる、石の宝殿を御神体とする神社である。
遙か昔のこと。大穴牟遅(大国主命)と少毘古那(少彦名命)の二神が出雲国から播磨国へ天津神の命を受けて来られた。二神はこの地を鎮めるために石で出来た宮を造り上げようと決め、さっそく取りかかった。しかし阿賀の神が乱を起こしたため、二神は宮を造るのを止めてその乱を鎮めた。ところが一夜が過ぎてしまったため、二神は宮を完成させることをあきらめ、横倒しになったまま放置し、その宮に籠もるとしたのである。
さらに年月が経って、第10代崇神天皇の御代に悪疫が蔓延した。その時二神が天皇の夢枕に立って、石の宮に籠もる二神の御霊を祀れば天下は泰平となるとのお告げがあった。これが生石神社創建の由来となる。そしてこの巨大な石の建造物は、二神が“宮”と称していることから「石の宝殿」、また播磨国を鎮めたことから「鎮の石室」とも呼ばれるようになった。
この石の宝殿がいつ造られたのかは、未だ分かっていない。『播磨国風土記』にその存在が記されているため、それよりも古いものであることは間違いない。ただ横6m、縦7m、高さ6mもの巨大な石の造形物を何故この地に造ったのか、また家が横倒しになった(側面の1つには屋根のような角錐になっている)ような形状に何故仕立てたのかも不明であり、全てが謎に包まれているのが現状である。
また石の宝殿の底の部分は池になっており、この池の水はどんな旱魃の時にも涸れず、海の潮位に合わせて水面が上下するとも言われる。またあたかも巨石が水面に浮かんでいるように見えるため、石の宝殿を「浮石」とも呼ぶが、実際には池の部分は岩盤を掘り下げられて造られたものであり、石の宝殿の底の部分はこの土地の岩盤と池の中で繋がっている。すなわち、この地にあった巨岩を削り出すなどの加工をして造型されたものが石の宝殿であると想定出来るだろう。ただその建造目的が何であるかが解明されない限り、この石の造形物の謎は決して解き明かされないであろう。
<用語解説>
◆日本三奇
あとの2つは、鹽竈神社の境外末社である御釜神社にある「塩竈」(宮城県)、霧島東神社の飛び地境内である高千穂峰山頂にある「天逆鉾」(宮崎県)となる。
◆阿賀の神
“あがのかみ”と読み、おそらく播磨国に土着していた神であると推測される。実際、姫路市飾磨区に英賀(あが)と呼ばれる一帯があり、そこに英賀神社がある。この神社の祭神は、英賀津彦神と英賀津姫であり、『播磨国風土記』には伊和大神(播磨一之宮・伊和神社の祭神)の子とされている。ただし『播磨国風土記』には伊和大神は大国主命と同一神であるとの記述もあり、事情は複雑である。
◆石の宝殿の建造諸説
上にある石の宝殿建造の由来は、生石神社の社伝とされているものだが、他にもいくつかの由来の説がある。
『播磨国風土記』では、この建造物を造ったのが“弓削の大連”であり、それは“聖徳の王の御世”であるとしている。“弓削の大連”は物部守屋であると推測されるが、“聖徳の王”である聖徳太子が摂政として政治をおこなった時代には既に亡くなっているため、後付けされた話であると考えられる。
また南北朝時代に書かれた『峯相記』(当時の播磨国の地誌)には“天人が造った”とだけ記されている。
アクセス:兵庫県高砂市阿弥陀町