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魔住ヶ窪

【ますみがくぼ】

この奇怪な名を持つ場所には、現在、地蔵堂が建てられているが、この地で怪異が起こったことが『太平記』巻二十三「大森彦七事」に残されている。

大森彦七盛長は、南北朝の争いで足利尊氏側につき、建武3年(1336年)の湊川の戦いで敵将の楠木正成を自害に追い込んだ武勲で知られる。その功などによって砥部中山に所領を与えられたのであるが、それ以降、猿楽をたしなむようになり、自ら舞うこともしばしばであったとされる。

暦応5年(1342年)、領地内にある金蓮寺の春祭りで猿楽を舞おうと、彦七主従一行が矢取川あたりにさしかかると、そこに一人の若い女が佇んでいた。声を掛けると、女は道案内を請う。ならばと一緒に行くが、途中で彦七は女を負ぶってやることにした。

そしてしばらく歩いていくと、急に背中が重くなった。何が起こったのかと、彦七は背中の女の様子をうかがう。すると女は八尺(2.4m)以上の身の丈になり、その顔は鬼女そのものに変わっていたのである。

鬼女は彦七の髪を掴むと空へ舞い上がろうした。しかし我に返った彦七は鬼女の腕を掴んで引き戻すと、両者もつれ合ったまま田の中に転げ落ちる。家来も主人を助けようと田に飛び込んで来るに及んで、鬼女もようやく諦めたのか彦七を放すと宙を舞って消えていった。

魔住ヶ窪の名は、鬼女が彦七を待ち受けていた場所であるために付けられたものである。そして地蔵堂は、この鬼女の供養のために建立されたものであると伝わっている。

しかしこの後も大森彦七にまつわる怪異は続く。

鬼女の出現で延期となった猿楽が再び催された夜、海上から光り物が現れ、やがて舞台を覆い尽くすように天空に異形の者が並んだ。そしてその中から楠木正成の怨霊が登場する。正成は、襲来の目的が彦七所有の宝剣であり、これを手にすればたちどころに今の世は転覆するという。

それから何度も正成の怨霊は襲来を繰り返し、彦七がそれを追い払った。しかし怨霊の姿は彦七にしか見えず、周囲からは彼一人が発狂して暴れているようにしか見えないために部屋に押し込められてしまった。

そしてある夜、彦七のいる部屋で立て続けに怪異が起こり、多数のあやかしが跋扈した。それでも彦七は武勇を奮って化け物を取り押さえ、ついに制圧した。その後、大般若経を転読するのが良いとのことで、日夜6度読むと雷鳴が轟いてそれ以降楠木正成の怨霊は現れなくなり、彦七も正気に返ったという。

大森彦七の供養塔も同町内宮内にある。しかし尊王論が広まる江戸後期以降、南朝の功臣を自害に追い込んだ逆賊と言われたためか、供養塔には3つに折れた跡が痛々しく残されている。

そして怨霊の狙った宝剣は『太平記』によると、足利直義(足利尊氏の同母弟)に献上されたとなっている。ただ大三島にある大山祇神社には、大森彦七所有の大太刀(国宝)が奉納されており、この大太刀で自害した楠木正成の首級を挙げたと伝えられている。

<用語解説>
◆大森彦七盛長
生没年不詳。南北朝時代初期の伊予国の武将。事績については、上に挙げた『太平記』巻二十三にあるこの怪異遭遇譚のみが伝わる。

◆楠木正成
1284-1336。河内国の土豪であったが、後醍醐天皇挙兵に応じて千早赤阪城で奮戦し、鎌倉倒幕に功績。足利尊氏の裏切り後も後醍醐天皇側の主力として戦う。湊川の戦いで足利方に敗れ、自刃する。

◆『太平記』
後醍醐天皇即位から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝の動乱を経て、足利2代将軍足利義詮の死までの約50年間の歴史をあらわした軍記物。後醍醐天皇の崩御までの部分が最初に成立し、その後に後半部分が書き足されたと推測される。大森彦七の話の収められる巻二十三は、この後半部の始まりにあたる。

アクセス:愛媛県伊予郡砥部町重光

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