【はしはかこふん】
長さ270m、高さ30mという全国でも11番目に大きな古墳であり、かつ前方後円墳として最初期に造営されたものの1つである。被葬者とされるのは、第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)である。
『日本書紀』によると、第10代崇神天皇7年、災害が続くために神々を集めて占ったところ倭迹迹日百襲姫命に大物主神が神懸かり、崇敬するように告げたとの記録が残されている。まさに巫女に神が降りて託宣した状況であるが、これ以降倭迹迹日百襲姫命は、三輪山の神である大物主神の妻として広く認知されたようである。
そして『日本書紀』ではそれに続けて、崇神天皇10年に起こった倭迹迹日百襲姫命と大物主神との悲劇が記されている。
大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命であるが、神は夜にのみ姫の元に現れ、朝には姿を消すという日が続いていた。ある夜、姫は一度姿が見たいと神に頼んだ。神は姫のたっての願いと聞き届け、翌朝に櫛の箱の中を見るとよいと告げた。しかし「その姿を見て驚いてはいけない」と釘を刺したのである。
翌朝、姫は目覚めると、言われた通り櫛の箱を開けて中を見た。するとそこには一匹の小蛇がいた。思わず悲鳴を上げる姫を尻目に、人の形に戻った大物主神は真の姿を見せたことを恥じ、恨み言を述べて三輪山へ飛んで帰ってしまった。残された姫は茫然自失のままその場にへたり込んだ。そのはずみで床に転がっていた箸が陰部に突き刺さり、それが元で姫は亡くなってしまったのであった。
このようにして亡くなった倭迹迹日百襲姫命を葬った墓は、昼は人が築き、夜は神が築いた。人々は山から墓まで列をなして石を手渡しで運んだという。そして出来上がった墓は、その死因から“箸墓”と称するようになり、今に伝えられることとなったのである。
一方で、この墳墓は日本古代史の火種となっている。この墓を邪馬台国の女王・卑弥呼のものであるとする説がある。『日本書紀』などにある倭迹迹日百襲姫命の記述が、“鬼道を能くする”卑弥呼と重ね合わせられ、同一人物であると主張する研究者もかなりある。彼らの主張の根拠としては、古墳の規模が『魏志倭人伝』記載の卑弥呼の墳墓に近い、邪馬台国畿内説の有力所在地である纏向遺跡に位置している、箸墓古墳の成立年代が3世紀中頃から後半であり卑弥呼の死没時期と合致する、あたりが挙げられる。ただこれらの根拠も決定的なものではなく、あくまで推論の域を超え出ないものであり、さらに箸墓古墳は宮内庁管理下にあって調査がほとんどなされていないこともあって、まだまだ謎のまま残されているのである。
<用語解説>
◆大物主神
三輪山に鎮座する神で、大神神社の祭神。その姿は蛇体である。大和地方で最も力を持つ国津神として登場するが、出雲の大国主命(大己貴神)の和魂とも言われる(または大国主命の息子である事代主神と同一神)。『古事記』では、初代神武天皇の后の父神として登場。また『日本書紀』では、10代崇神天皇の時代における上の倭迹迹日百襲姫命の伝承や、祟り神として疫病をもたらすが子孫(大田田根子)を祭主として鎮めた伝承など、皇室と深い関わりや影響を持つ神として記されている。
◆纏向遺跡
東西2km、南北1.5kmの広さを持つ、弥生時代最大級の遺跡。箸墓古墳を始めとする6つの大規模前方後円墳を備え、全国各地の特色ある土器が出土するなど、中央集権的な政治機構があったことを推測させる遺跡である。そのため邪馬台国畿内説を唱える研究者からは、その存在を証明する最有力の遺跡と目されている。
アクセス:奈良県桜井市箸中